ないかといふ様な、理由もない事を心待ちに待つてゐた様であつた。
軈て一人々々教員室に呼ばれて、それ/″\に誡められたり励まされたりしたが、私は一番後廻しになつた。そして、「お前はまだ年もいかないし、体も弱いから、もう一年二年生で勉強して見ろ。」と言はれて、私は聞えぬ位に「ハイ」と答へて叩頭《おじぎ》をすると、先生は私の頭を撫でて、「お前は余り穏《おとな》し過ぎる。」と言つた、そして卓子の上のお盆から、麦煎餅を三枚取つて下すつたが、私は其時程先生のお慈悲を有難いと思つた事はなかつた。其|室《へや》には、村長様を初め二三人の老人達がまだ残つてゐた。
私は紙に包んだ紅白の餅と麦煎餅を、両手で胸に抱いて、悄々《しをしを》と其処を出て来たが、昇降口まで来ると、唯もう無暗に悲しくなつて、泣きたくなつて了つた。喉まで出懸けた声は辛うじて噛殺したが、先生の有難さ、友達に冷笑《ひやかさ》れる羞かしさ、家へ帰つて何と言つたものだらうといふ様な事を、子供心に考へると、小さい胸は一図に迫つて、涙が留度もなく溢れる。すると、怎して残つてゐたものか、二三人の女生徒が小使室の方から出て来た様子がしたので、私は何とも言へぬ羞かしさに急に動悸がして来て、ぴたりと柱に凭懸《よりかか》つた儘、顔を見せまいと俯いた。
すた/\と軽い草履の音が後ろに近づいたと思ふと、『何《どう》したの、新太郎さん?』と言つた声は、藤野さんであつた。それまで一度も言葉を交した事のない人から、恁《か》う言はれたので、私は思はず顔を上げると、藤野さんは、晴乎《ぱつちり》とした眼に柔かな光を湛へて、凝と私を瞶《みつ》めてゐた。私は直ぐ又|俯《うつむ》いて、下唇を噛締めたが、それでも歔欷《すすりなき》が洩れる。
藤野さんは暫く黙つてゐたが、『泣かないんだ、新太郎さん。私だつて今度は、一番下で漸《やつ》と及第したもの。』と、弟にでも言ふ様に言つて、『明日好い物持つてつて上げるから、泣かないんだ。皆が笑ふから。』と私の顔を覗き込む様にしたが、私は片頬を柱に擦りつけて、覗かれまいとしたので、又すた/\と行つて了つた。藤野さんは何学科も成績が可《よ》かつたのだけれど、三学期になつてから入つたので、一番尻で二年生に進級したのであつた。
其日の夕暮、父は店先でトン/\と桶の箍《たが》を篏《い》れてゐたし、母は水汲に出て行つた後で私は悄然と囲炉裏の隅に蹲つて、もう人顔も見えぬ程薄暗くなつた中に、焚火の中へ竹屑を投げ入れては、チロ/\と舌を出す様に燃えて了ふのを余念もなく眺めてゐたが、裏口から細い声で、『新太郎さん、新太郎さん。』と、呼ぶ人がある、私はハツと思ふと、突然《いきなり》土間へ飛び下りて、草履も穿かずに裏口へ駈けて行つた。
藤野さんは唯一人、戸の蔭に身を擦り寄せて立つてゐたが、私を見ると莞爾《につこり》笑つて、『まあ、裸足で。』と、心持眉を顰《しか》めた。そして急がしく袂の中から、何か紙に包んだ物を出して私の手に渡した。
『これ上げるから、一生懸命勉強するツこ。私もするから。』と言ふなり、私は一言も言はずに茫然《ぼんやり》立つてゐたので、すた/\と夕暗の中を走つて行つたが、五六間行くと後ろを振返つて、手を顔の前で左右に動かした。誰にも言ふなといふ事だと気が附いたので、私は頷《うなづ》いて見せると、其儘またすた/\と梨の樹の下を。
紙包の中には、洋紙の帳面が一冊に半分程になつた古鉛筆、淡紅色《ときいろ》メリンスの布片に捲いたのは、鉛で拵へた玩具の懐中時計であつた。
其夜私は、薄暗い手ランプの影で、鉛筆の心を舐《な》めながら、贈物の帳面に、読本を第一課から四五枚許り、丁寧に謄写した。私が初めて文字を学ぶ喜びを知つたのは、実に其時であつた。
人の心といふものは奇妙なものである。二度目の二年生の授業が始まると、私は何といふ事もなく学校に行くのが愉《たのし》くなつて、今迄は飽きて/\仕方のなかつた五十分|宛《づつ》の授業が、他愛もなく過ぎて了ふ様になつた。竹の鞭で頭を叩かれる事もなくなつた。
広い教場の、南と北の壁に黒板が二枚宛、高島先生は急がしさうに其四枚の黒板を廻つて歩いて教へるのであつたが、二年生は、北の壁の西寄りの黒板に向つて、粗末な机と腰掛を二列に並べてゐた。前の方の机に一団になつてゐる女生徒には、無論藤野さんがゐた。
新学年が始まつて三日目かに、私は初めて先生に賞められた。黙つて聞いてさへ居れば、先生の教へる事は屹度《きつと》解る。記憶力の強い子供の頭は、一度理解したことは仲々忘れるものでない。知つた者は手を挙げろと言はれて、私は手を挙げぬ事は殆んど無かつた。
何の学科として嫌ひなものはなかつたが、殊に私は習字の時間が好であつた。先生は大抵私に水注《みづつぎ》の役を吩咐《
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