ゐて、午後の課業を休む事さへあつた。病身の母は、何時《いつ》か私の頭を撫でながら、此兒も少し他の子供等と喧嘩でもして呉れる樣になれば可《い》いと言つた事がある。私は何とも言はなかつたが、腹の中では、喧嘩すれば俺が敗けるもの、と考へてゐた。
私の家といふのは、村に唯一軒の桶屋であつたが、桶屋だけでは生計《くらし》が立たぬので、近江屋といふ近郷一の大地主から、少し許り田を借りて小作をしてゐた。隨つて、年中變らぬ稗勝《ひえがち》の飯に粘氣《ねばりけ》がなく、時偶《ときたま》夜話に來る人でもあれば、母が取あへず米を一掴み程十能で焦《いぶ》つて、茶代りに出すといふ有樣であつたから、私なども、年中つぎだらけの布《ぬの》の股引を穿《は》いて、腰までしかない洗晒《あらひざら》しの筒袖《つゝそで》、同じ服裝《なり》の子供等と共に裸足《はだし》で歩く事は慣れたもので、頭髮《かみ》の延びた時は父が手づから剃《そ》つて呉れるのであつた。名は檜澤新太郎といふのだが、村の人は誰でも「桶屋の新太」と呼んだ。
學校では、前にも言つた如く、些《ちつ》とも學科に身を入れなかつたから、一年から二年に昇る時は、三十人許り
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