と》解る。記憶力の強い子供の頭は、一度理解したことは仲々忘れるものでない。知つた者は手を擧げろと言はれて、私の手を擧げぬ事は殆ど無かつた。
 何の學科として嫌ひなものはなかつたが、殊に私は習字の時間が好であつた。先生は大抵私に水注《みづつぎ》の役を吩附《いひつ》けられる。私は、葉鐵《ぶりき》で拵へた水差を持つて、机から机と※[#「えんにょう+囘」、第4水準2−12−11]つて歩く。机の兩端には一つ一つ硯が出てゐるのであつたが、大抵は虎斑《とらぶち》か黒の石なのに、藤野さんだけは、何石なのか紫色であつた。そして私が水を注《つ》いでやつた時、些《そつ》と叮頭《おじぎ》をするのは藤野さん一人であつた。
 氣の揉めるのは算術の時間であつた。私も藤野さんも其年八歳であつたのに、豐吉といふ兒が同じ級にあつて、それが私等よりも二歳《ふたつ》か年長であつた。體も大きく、頭腦も發達してゐて、私が知つてゐる事は大抵藤野さんも知つてゐたが、又、二人が手を擧げる時は大抵豐吉も手を擧げた。何しろ子供の時の二歳違ひは、頭腦の活動の精不精に大した懸隔があるもので、それの最も顯著に現はれるのは算術である。豐吉は算術が得意であつた。
 問題を出して置いて先生は別の黒板の方へ※[#「えんにょう+囘」、第4水準2−12−11]つて行かれる。そして又歸つて來て、『出來た人は手を擧げて。』と、竹の鞭を高く擧げられる。それが、少し難《むづ》かしい問題であると、藤野さんは手を擧げながら、若くは手を擧げずに、屹度後ろを向いて私の方を見る。私は、其眼に滿干《さしひき》する微かな波をも見遁《みのが》す事はなかつた。二人共手を擧げた時、殊にも豐吉の出來なかつた時は、藤野さんの眼は喜びに輝いた。豐吉も藤野さんも出來なくて、私だけ手を擧げた時は、邪氣ない羨望の波が寄つた。若しかして、豐吉も藤野さんも手を擧げて、私だけ出來ない事があると、氣の毒相な眼眸《まなざし》をする。そして、二人共出來ずに、豐吉だけ誇りかに手を擧げた時は、美しい藤野さんの顏が瞬く間暗い翳《かげ》に掩《おほ》はれるのであつた。
 藤野さんの本を讀む聲は、隣席の人すら聞えぬ程讀む他の女生徒と違つて、凛として爽やかであつた。そして其讀方には、村の兒等にはない、一種の抑揚《ふし》があつた。私は、一月二月と經《た》つうちに、何日《いつ》ともなく、自分でも心附かずに其|抑揚《ふし》を眞似る樣になつた。友達はそれと氣が附いて笑つた。笑はれて、私は改めようとするけれども、いざとなつて聲を立てゝ讀む時は、屹度其|抑揚《ふし》が出る。或時、小使室の前の井戸端で、六七人も集つて色々な事を言ひ合つてゐた時に、豐吉は不圖其事を言ひ出して、散々に笑つた末、『新太と藤野さんと夫婦になつたら可《よ》がんべえな。』と言つた。
 藤野さんは五六歩離れた所に立つてゐたつたが、此時、『成るとも。成るとも。』と言つて皆を驚かした。私は顏を眞赤《まつか》にして矢庭に駈出して了つた。
 いくら子供でも、男と女は矢張男と女、學校で一緒に遊ぶ事などは殆ど無かつたが、夕方になると、家々の軒や破風に夕餉の煙の靉《たなび》く街道に出て、よく私共は寶奪ひや鬼ごッこをやつた。時とすると、それが男組と女組と一緒になる事があつて、其※[#「麻かんむり/「公」の「八」の右を取る」、第4水準2−94−57]《そんな》時は誰しも周圍が暗くなつて了ふまで夢中になつて遊ぶのであるが、藤野さんが鬼になると、屹度私を目懸けて追つて來る。私はそれが嬉しかつた。奈何《どんな》に※[#「おうにょう+王」、第3水準1−47−62]弱《かよわ》い體質でも、私は流石に男の兒、藤野さんはキッと口を結んで敏《さと》く追つて來るけれど、容易に捉《つかま》らない。終ひには息を切らして喘々《ぜい/\》[#ルビの「ぜい/\」は底本では「せい/\」]するのであるが、私は態と捉まつてやつて可いのであるけれど、其處は子供心で、飽迄も/\身を飜して意地惡く遁げ※[#「えんにょう+囘」、第4水準2−12−11]る。それなのに、藤野さんは鬼ごッこの度、矢張私許り目懸けるのであつた。
 新家の家には、藤野さんと從兄弟同志の男の兒が三人あつた。上の二人は四年と三年、末兒はまだ學校に上らなかつたが、何れも餘り成績が可くなく、同年輩の近江屋の兒等と極く仲が惡かつたが、私の朧氣に憶《おぼ》えてゐる所では、藤野さんもよく二人の上の兒に苛責《いぢめ》られてゐた樣であつた。何時《いつ》か何處かで叩かれてゐるのを見た事もある樣だが、それは明瞭《はつきり》しない。唯一度私が小さい桶を擔いで、新家の裏の井戸に水汲に行くと、恰度《ちやうど》其處の裏門の柱に藤野さんが倚懸《よりかゝ》つてゐて、一人|潸々《さめ/″\》と泣いてゐた。怎《どう》したのだと私
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