だけれど、三學期になつてから入つたので、一番尻で二年生に進級したのであつた。
 其日の夕暮、父は店先でトン/\と桶の箍《たが》を篏《い》れてゐたし、母は水汲に出て行つた後で私は悄然《せうぜん》と圍爐裏の隅に蹲《うづくま》つて、もう人顏も見えぬ程薄暗くなつた中に、焚火の中へ竹屑を投げ入れては、チロチロと舌を出す樣に燃えて了ふのを餘念もなく眺めてゐたが、裏口から細い聲で、『新太郎さん、新太郎さん。』と呼ぶ人がある。私はハッと思ふと、突然《いきなり》土間へ飛び下りて、草履も穿かずに裏口へ駈けて行つた。
 藤野さんは唯一人、戸の蔭に身を擦り寄せて立つてゐたが、私を見ると莞爾《につこり》笑つて、『まあ、裸足《はだし》で。』と、心持眉を顰《ひそ》めた。そして急がしく袂の中から、何か紙に包んだ物を出して私の手に渡した。
『これ上げるから、一生懸命勉強するッこ。私もするから。』と言ふなり、私は一言も言はずに茫然《ぼんやり》立つてゐたので、すた/\と夕暗の中を走つて行つたが、五六間行くと後ろを振返つて、手を顏の前で左右に動かした。誰にも言ふなといふ事だと氣が附いたので、私は頷《うなづ》いて見せると、其儘またすた/\と梨の樹の下を。
 紙包の中には、洋紙の帳面が一册に半分程になつた古鉛筆、淡紅色《ときいろ》メリンスの布片《きれ》に捲いたのは、鉛で拵へた玩具の懷中時計であつた。
 其夜私は、薄暗い手ランプの影で、鉛筆の心《しん》を甜めながら、贈物の帳面に、讀本を第一課から四五枚許り、丁寧に謄寫した。私が初めて文字を學ぶ喜びを知つたのは、實に其時であつた。

 人の心といふものは奇妙なものである。二度目の二年生の授業が始まると、私は何といふ事もなく學校に行くのが愉《たのし》くなつて、今迄では飽きて/\仕方のなかつた五十分宛の授業が、他愛もなく過ぎて了ふ樣になつた。竹の鞭で頭を叩かれる事もなくなつた。
 廣い教場の、南と北の壁に黒板が二枚宛、高島先生は急がしさうに其四枚の黒板を※[#「えんにょう+囘」、第4水準2−12−11]つて歩いて教へるのであつたが、二年生は、北の壁の西寄りの黒板に向つて、粗末な机と腰掛を二列に並べてゐた。前方の机に一團になつてゐる女生徒には、無論藤野さんがゐた。 新學年が始まつて三日目かに、私は初めて先生に賞められた。默つて聞いてさへ居れば、先生の教へる事は屹度《きつ
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