来たと言つてるやうに多吉には見えた。老人はこそこそと遁《に》げるやうに火鉢の傍から離れて、隅の方へ行つた。
校長は蔵《しま》つた懐中時計をまた出して見て、『恰度七時半です。――恰度可いでせう。授業は十一時からですから。』
『目賀田さんは御苦労ですなあ。』両手を衣嚢《かくし》に入れてがつしりした肩を怒らせながら、雀部は同情のある口を利いた。
『年は老《と》るまいものさな。………何有《なあに》………然し五里や十里は………まだまだ………』
断々《きれぎれ》に言ひながら、体を揺《ゆす》り上げるやうにして裾を端折つてゐる。
そして今度は羽織に袖を通しかけて、
『時にな、校長さん。』と言ひ出して。『俺《わし》の処の六角時計ですな、あれが何うも時々針が止つて為様《しやう》がないのですが、役場に持つて来たら直して貰へるでせうな?』
話の続きは玄関で取交された。
臨時の休みに校庭はひつそりとして広く見えた。隅の方に四五人集つて何かしてゐた近処の子供等は、驚いたやうに頭を下げて、五人の教師の後姿を見送つた。教師達の出て行つた後からは、毛色の悪い一群《ひとむれ》の※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66]が餌《ゑ》をあさりながら校庭へ入つて行つて。
霧はもう名残もなく霽《は》れて、澄みに澄んだ秋の山村《さんそん》の空には、物を温めるやうな朝日影が斜めに流れ渡つてゐた。村は朝とも昼ともつかぬやうに唯物静かであつた。
水銀のやうな空気が歩みに随つて顔や手に当り、涼気《つめたさ》が水薬《すゐやく》のやうに体中《からだぢゆう》に染みた。「頭脳《あたま》が透き通るやうだ。」と多吉は思つた。暫らくは誰も口を利かなかつた。
村端れへ出ると、殿《しんがり》になつて歩いて来た校長は、
『今井さん。今日は不思議な日ですな。』と呼びかけた。
『何うしてです?』
『靴を穿いた人が二人に靴でない人が三人、髭のある人が二人に髭のない人が三人、皆二と三の関係です。』
『さうですね。』多吉は物を捜すやうに皆を見廻した。そして何か見付けたやうに、俄《には》かに高く笑ひ出した。
『さう言へばさうですな。』と背の高い雀部も振回《ふりかへ》つた。『和服が三人に洋服が二人、飲酒家《さけのみ》が二人に飲まずが三人。ははは。』
『飲酒家《さけのみ》の二人は誰と誰ですい?』目賀田は不服さうな口を利いた。
『貴方と私さ。』
『俺《わし》もかな?――』
後の言葉は待つても出なかつた。
雀部は元気な笑ひ方をした。が、其の笑ひを中途で罷めて、遺失物《おとしもの》でもしたやうに体を屈《こご》めた。見ると衣嚢《かくし》から反古紙《ほごがみ》を出して、朝日に融けかけた路傍の草の葉の霜に濡れた靴の先を拭いてゐた。
拭きながら、『ははは。』と笑ひの続きを笑つた。『目賀田さんは飲酒家《さけのみ》でない積りと見える。』
多吉は吹出したくなつた。月給十三日分で買つた靴だと何日か雀部の誇つた顔を思出したのである。雀部の月給は十四円であつた。多吉は心の中で、「靴を大事にする人が一人………」と数へた。
『蝙蝠傘も目賀田さんと矢沢さんの二人でせう。皆二と三の関係です。』校長はまた言つた。
『それからまだ有りますよ。』多吉は穏《おとな》しく言つた。
『老人《としより》が三人で若い者が二人。』
『私も三人のうちですか?』
『可けませんか?』
多吉は揶揄《からか》ふやうな眼付をした。三十五六の、齢の割に頬の削《こ》けて血色の悪い顔、口の周匝《まはり》を囲むやうに下向きになつた薄い髭、濁つた力の無い眼光《まなざし》――「戯談《じやうだん》ぢやない。これでも若い気か知ら。」さういふ思ひは真面目であつた。
『貴方は髭が有るから為方《しかた》がないですよ。』
松子は吹出して了つた。
『校長さん、校長さん。』雀部は靴を拭いて了つて歩き出した。『矢沢さんは一人で、あとは皆男ですよ。これは何うします?』
『さうですな。』
『………………………………………………………………………………………』
『これだけは別問題です。さうして置きませう。』
雀部は燥《はしや》ぎ出した。『私が女に生れて、矢沢さんと手を取つて歩けば可《よ》かつたなあ。ねえ、矢沢さん。さうしたら――』
『貴方が女だつたら、…………………………』四五間先にゐた目賀田が振回《ふりかへ》つた。『……飲酒家《さけのみ》の背高の赤髯へ、…………………………』
言ひ方が如何にも憎さ気であつたので、校長は腹を抱《かか》へて了つた。松子もしまひには赧《あか》くなる程笑つた。
程なく土の黒い里道《りだう》が往還を離れて山の裾に添うた。右側の田はやがて畑になり、それが段々幅狭くなつて行くと、岸の高い渓川に朽ちかかつた橋が架つてゐた。
橋を渡ると山であつた。
高くもない雑木山芝山が、逶《うね》り※[#「二点しんにょう+施のつくり」、第3水準1−92−52]《くね》つた路に縫はれてゐた。然し松子の足を困らせる程には峻しくもなかつた。足音に驚いて、幾羽の雉子が時々藪蔭から飛び立つた。けたたましい羽音は其の度何の反響もなく頭の上に消えた。
雑木の葉は皆|触《さは》れば折れさうに剛《こはば》つて、濃く淡く色づいてゐた。風の無い日であつた。
芝地の草の色ももう黄であつた。処々に脊を出してゐる黒い岩の辺《ほとり》などには、誰も名を知らぬ白い小い花が草の中に見え隠れしてゐた。霜に襲はれた山の気がほかほかする日光の底に冷たく感じられた。校長は、何と思つたか、態々《わざわざ》それ等の花を摘み取つて、帽子の縁に※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]して歩いた。
目賀田は色の褪せた繻子《しゆす》の蝙蝠傘を杖にして、始終皆の先に立つた。物言へば疲れるとでも思つてゐるやうに言葉は少かつた。校長と雀部が前になり後になりして其の背後《うしろ》に跟《つ》いた。二人の話題は、何日《いつ》も授業批評会の時に最も多く口を利く××といふ教師の噂であつた。雀部は其の教師を常から名を言はずに「あの眇目《かため》さん」と呼んでゐた。意地悪な眇目《かため》の教師と飲酒家《さけのみ》の雀部とは、少《ちひさ》い時からの競争者で、今でも仲が好くなかつた。
多吉と松子は殿《しんがり》になつた。
とある芝山の頂に来た時、多吉は路傍《みちばた》に立留つた。そして、
『少し先に歩いて下さい。』と言つた。
『何故です?』
『何故でも。』
其の意味を解しかねたやうに、松子はそれでも歩かなかつた。
すると多吉は突然《いきなり》今来た方へ四五間下つて行つた。そして横に逸《そ》れて大きい岩の蔭に体を隠した。岩の上から帽子だけ見えた。松子は初めて気が付いて、一人で可笑《をかし》くなつた。
間もなく多吉は其処から引き返して来て、松子の立つてゐるのを見ると、笑ひながら近づいた。
『何うも済みません。』
『私はまた、何うなすつたのかと思つて。』
二人は笑ひながら歩き出した。と、多吉は後を向いて、
『斯《か》うして二人歩いてる方が可《い》いぢやありませんか?』
そして返事も待たずに、
『少し遅く歩かうぢやありませんか。………何《ど》うです、あの格好は?』
多吉は坂下の方を指した。
『ええ。』松子は安心したやうな眼付をした。『目賀田先生はああして先になつてますけれども、帰途《かへり》には屹度《きつと》一番後になりますよ。』
『其の時は二人で手を引いてやりますか?』
『厭ですよ、私は。』
『止せば可《い》いのに下駄なんか穿いて、なんて言はれないやうだと可いですがね。』
『あら、私は大丈夫よ。屹度歩いてお目にかけますわ。』
『尤も、老人《としより》が先にまゐつて了ふのは順序ですね。御覧なさい。ああして年の順でてくてく坂を下りて行きますよ。ははは。面白いぢや有りませんか?』
『ええ。先生は随分お口が悪いのね。』
『だつて、面白いぢやありませんか? あつ、躓《つまづ》いた。御覧なさい、あの目賀田|爺《ぢい》さんの格好。』
『ほほほほ。………ですけれど、私達だつて矢張坂を下りるぢやありませんか?』
『貴方もお婆さんになるつて意味ですか?』
『まあ厭。』
『厭でも応でもさうぢやありませんか?』
『そんなら、貴方だつて同じぢやありませんか?』
『僕は厭だ。』
『厭でも応でも。ほほほほ。』
『人が悪いなあ。――然し考へて御覧なさい。僕なんかお爺さんになる前に、まだ何か成らなければならんものがありますよ。――ああ、此方《こつち》を見てる。』俄《には》かに大きい声を出して、『先生。少し待つて下さい。』
半町ばかり下に三人が立留つて、一様に上を見上げた。
『何うです、あの帽子に花を※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]した態《さま》は?』多吉は少し足を早めながら言ひ出した。『脚の折れた歪んだピアノが好い音を出すのを、死にかかつたお婆さんが恋の歌を歌ふやうだと何かに書いてあつたが、少々似てるぢやありませんか? 貴方が僕の小便するのを待つてゐたよりは余程《よつぽど》滑稽ですね。』
『随分ね。私は何をなさるのかと思つてゐただけぢやありませんか?』
『いや失敬。戯談ですよ。貴方と校長と比べるのは酷でした。』
『もうお止しなさいよ。校長が聞いたら怒るでせうね?』
『あの人は一体ああいふ真似が好きなんですよ。それ、此間《こなひだ》も感情教育が何《ど》うだとか斯《か》うだとか言つてゐたでせう?』
『ええ。あの時は私|可笑《をかし》くなつて――』
『真個《ほんと》ですよ。――優美な感情は好かつた。――あんな事をいふつてのは一種の生理的なんですね。』
『え?』
『貴方はまだ校長の細君に逢つた事はありませんでしたね?』
『ええ。』
『大将細君には頭が上らないんですよ。――聟《むこ》ですからね。それに余《あんま》り子供が多過るもんですからね。』
『………』
『実際ですよ。土芋《つちいも》みたいにのつぺりした、真黒な細君で、眼ばかり光らしてゐますがね。ヒステリイ性でせう。それでもう五人子供があるんです。』
『五人ですか?』
『ええ。こんだ六人目でせう。またそれで実家《うち》へ帰つてるんださうですから。』
『もうお止しなさい。聞えますよ。』
『大丈夫です。』
さう言つたが、多吉は矢張《やつぱ》りそれなり口を噤《つぐ》んだ。間隔《あひだ》は七八間しかなかつた。
雀部は下から揶揄《からか》つた。『…………………………今井さん、矢沢さん。』
校長も嗄《かす》れた声を出して呼んだ。『少し早く歩いて下さい。』
『急ぎませう。急ぎませう。』と松子は後から迫《せ》き立てた。
追着くと多吉は、
『貴方方は仲々早いですね。』
『早いも遅いもないもんだ。何をそんなに――話してゐたのですか?』雀部は両手を上衣の衣嚢《かくし》に突込んで、高い体を少し前へ屈めるやうにしながら、眼で笑つて言ふ。『目賀田さんは、若い者は放つて置く方が可《い》いつて言ふ説だけれども、私は少し――ねえ、校長さん。』
『全く。ふふふふ。』
『済みませんでした。下駄党の敗北ですね。――だが、今私達が何をまあ話しながら来たと思ひます?』
『…………………………?』
と目賀田が言つた。すると校長も、
『何だか知らないが、遠くからは何うも………』
『困りましたなあ。そんな事よりもつと面白い事なんですよ。――貴方方の批評をしながら来たんですよ。』
『私達の?』
『何ういふ批評です?』
雀部と校長が同時に言つた。
『えゝ、さうなんです。上から見ると、てくてく歩いてるのが面白いですもの。』
『それだけですか?』
『怒つちや可けませんよ。――貴方方が齢の順で歩いてゐたんでせう? だから屹度あの順で死ぬんだらうつて言つたんです。はははは。上から見ると一歩《ひとあし》一歩《ひとあし》お墓の中へ下りて行くやうでしたよ。』
『これは驚いた。』校長はさう言つて、態《わざ》とでもない様に眼を円《まろ》くした。そして、もう一度、『これは驚いた。』
「何を驚くの
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