木綿の紋付を脱いで、小使が火を入れたばかりの火鉢の上に翳《かざ》した。羽織は細雨《こさめ》に遭つたやうにしつとりと濡れてゐて、白い水蒸気が渦巻くやうに立つた。『慣れた路ですけれども、足許しか見えないもんだから何だか知らない路に迷つてゐるやうでしてなあ。いや、五里霧中とは昔の人はよく言つたものだと思ひました哩《わい》。……蝙蝠傘《かうもりがさ》を翳《さ》してるのに、拭いても拭いても顔から雫が滴《た》るのですものなあ。』こんな事を言ひながら頻《しき》りと洟水《はなみづ》を啜つた。もう六十からの老人《としより》であるが、資格はただの准訓導であつた。履歴を訊《ただ》せば、藩の学問所の学頭をした人の嗣《あと》で、県政の布かれてからは長らく漢学の私塾を開いてゐたとかいふ事である。
羽織が大概《あらまし》乾いた頃に女教師が来た。其の扮装《みなり》を見上げ見下して、目賀田は眼を円くした。
『貴方は下駄ですかい?』
『え。』
又見上げ見下して、『真箇《ほんと》に下駄で行くのですかい?』
『そんなに悪い路で御座いませうか?』
『下駄では少し辛いでせうよ、矢沢さん。』と校長が宿直室から声を懸けた。
『さ
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