してゐる准訓導の今井多吉は、それを見ながら前《ぜん》の女教師を思出した。独身にしては老《ふ》け過ぎる程の齢をしてゐた其の女の、甲高《かんだか》い声で生徒を叱り飛ばした後で人前も憚らず不興気な顔をしてゐる事があつたり、「女」といふを看板に事々に労を惜んで、楽な方へ楽な方へと廻つてばかりゐたのに比べて、齢の若いとは言ひながら、松子の何の不安も無気《なげ》に穏《おとな》しく自分の新しい境遇に処して行かうとする明い心は、彼の単調な生活に取つて此頃一つの興味であつた。前《ぜん》の女教師の片意地な基督《キリスト》教信者であつた事や、費用《つひえ》をはぶいて郵便貯金をしてゐる事は、それを思出す多吉の心に何がなしに失望を伴つた。それだけ松子の思慮の浅く見える物言ひや、子供らしく口を開《あ》いて笑つたりする挙動《そぶり》が、彼には埃だらけな日蔭のやうに沈んでゐる職員室の空気を明くしてゐるやうに思はれた。
『今井さんは何《ど》うです?』と、校長は人の好ささうな顔に笑ひを浮べて言つた。
『煎餅を喰ひにですか。』と若い准訓導は高く笑つた。『行きますとも。』
校長も笑つた。髯の赤い、もう五十|面《づら》の首席
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