まだ嫁なんか貰ふ筈ぢやなかつたがと思つてるうちに、何時の間にか眠つちやつたんです。』
『面白いのね。お幾歳《いくつ》の時です?』
『十七の時。』
 多吉は腰掛けた石の冷気を感じて立ち上つた。そして今来た方を見渡したが、それらしい人影も見えなかつた。
『何うしたんでせう?』
『真個《ほんと》にねえ。………斯うしてると川の音が聞えますね。』
『川の音?』
 二人は耳を澄ました。
『聞えるでせう?』
『聞えませんよ。』
『聞えますよ。此の下に川があつたぢやありませんか?」
『さう言へば少し聞えるやうですね。………うむ、聞える。彼処《あすこ》まで行つて待つてることにしませうか?』
『さうですね。』
『実に詰らない役だ。』
『真個にね。私がゐなかつたら先へいらつしやるのでせう?』
『はは。』と多吉は高く笑つた。
 二人は坂を下つた。
 渓川の水は暮近い空を映して明《あかる》かつた。二人は其の上の橋の、危なげに丸太を結つた欄干に背を靠《もた》せて列んだ。其処からはもう学校まで十一二町しかなかつた。
『此処で待つて来なかつたら何うします?』
『私は何うでも可くつてよ。』
『それぢや先に帰る事にしますか?』
『帰つても可いけれども、何だか可笑《をかし》いぢやありませんか?』
『そんなら何時まででも待ちますか?』
『待つても可いけれど………』
『日が暮れても?』
『私何うでも可いわ。先生の可いやうに。』
『若しか待つてるうちに日が暮れて了つて、真暗になつたところへ、山賊でも出て来たら何うします?』
『厭ですわ、嚇《おど》かして。』
『其処等の藪ががさがさ鳴つて、豆絞りの手拭か何か頬冠りにした奴が、にゆつと出て来たら?』
『出たつて可いわ。先生がいらつしやるから。』
『僕は先に逃げて了《し》まひますよ。』
『私も逃げるわ。』
『逃げたつて敵《かな》ひませんよ。後から襟首をぐつと捉へて、生命欲しいか金欲しいかと言つたら何うします?』
『お金《わし》を遣るわ。一円ばかししか持つてないから。』
『それだけぢや足らないつて言つたら?』
『そしたら………そしたら、先に逃げた先生がどつさり持つてるから、あの方へ行つてお取りなさいつて言つてやるわ。ほほほ。』
『失敗《しま》つた。此の話はもつと暗くなつてからするんだつけ。』
『随分ね。………もう驚かないから可いわ。』
『真個《ほんと》ですか?』
『真
前へ 次へ
全26ページ中20ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
石川 啄木 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング