に休息した。富江一人は彼室《あちら》へ行き此室《こちら》へ行き、宛然《さながら》我家の樣に振舞つた。お柳は朝から口喧しく臺所を指揮《さしづ》してゐた。
 晩餐の際には、嚴めしい口髭を生やした主人の信之も出た。主人と巡査と校長の間に持上つた鮎釣《あゆかけ》の自慢話、それから、此近所の山にも猿が居る居ないの議論――それが濟まぬうちに晩餐は終つて巡査は間もなく歸つた。
 軈て信吾の書齋にしてゐる離室《はなれ》に、歌留多の札が撒《ま》かれた。明るい五分心の吊洋燈《つるしランプ》二つの下に、入交りに男女の頭が兩方から突合つて、其下を白い手や黒い手が飛ぶ。行儀よく並んだ札が見る間に減つて、開放した室が刻々に蒸熱《むしあつ》くなつた。智惠子の前に一枚、富江の前に一枚……頬と頬が觸れる許りに頭が集る。『春の夜の――』と山内が妙に氣取つた節で讀上げると、
『萬歳ツ。』と富江が金切聲で叫んだ。智惠子の札が手際よく拔かれて、第一戰は富江方の勝に歸した。智惠子、信吾、沼田、愼次、清子の顏には白粉が塗られた。信吾の片髭が白くなつたのを指さして、富江は聲の限り笑つた。一同もそれに和した。沼田は片肌を脱ぎ、森川は立
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