野は重々しい調子で呼んだ。『僕は貴女に然《さ》う言はれると、心苦しいです。誰だつてあの際あの場處に居たら、あれ位の事をするのは普通《あたりまへ》ぢやありませんか?』
『だつて、此兒の生命《いのち》を救けて下すつたのは、現在貴方ぢや御座いませんですか!』
『日向|樣《さん》!』と吉野は又呼んだ。『も少し眞摯《まじめ》に考へて見ませう……若しあの際、彼處《あそこ》に居たのが貴女でなくて別の人だつたらですね、僕は同じことを行《や》るにしても、もつと違つた心持で行《や》つたに違ひない。』
『まあ貴方《あなた》は、……』
『言つて見れば一種の僞善だ!』
然《さ》う言ふ顏を、智惠子は暗ながら眤《ぢつ》と仰いだ。何か言はうとしても言へなかつた。
『僞善です!』と、男は自分を叱り附ける樣に重く言つた。渠は今、自分の心が何物かに征服される樣に感じてゐる。それから脱れ樣として恁※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《こんな》事を言ふのだ。『僞善です! 人が善といふ名の附く事をする、その動機は二つあります。一つは自分の感情の滿足を得る爲め、畢竟自分に甘える爲め、も一
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