方へ向く。
『アノウ……』と、智惠子の眞面目な顏を見ては惡いことを言出したと思つたらしく、心持極り惡氣に頬を染めたが、『詰らない事よ。……でも神山さんが言つてるの。あの、少し何してるんですつて、神山さんに。』
『何してるつて、何を?』
『あら!』と靜子は耳まで紅くした。
『まさか!』
『でも富江さん自身で被仰《おつしや》つたんですわ。』と、自分の事でも辯解する樣に言ふ。
『まあ彼の方は!』と智惠子は少し驚いた樣に目を瞠《みは》つた。それは富江の事を言つたのだが、靜子の方では、山内の事の樣に聞いた。
 程なくして二人は此家を出た。

      五

 二人が醫院の玄關に入ると、藥局の椅子に靠《もた》れて、處方簿か何かを調べてゐた加藤は、やをら其帳簿を伏せて快活に迎へた。
『や、婦人隊の方は少々遲れましたね、昌作さんの一隊は二十分許り前に行きましたよ。』
『然《さ》うで御座いますか。あの愼次さんも被來《いらし》つて?』
『は。弟は歌留多を取つた事がないてんで弱つてましたが、到頭引つ張られて行きました。まお上がんなさい。こら、清子、清子。』
 そして、清子の行く事も快く許された。
『貴君も如何で御座いますか?』と智惠子が言つた。
『ハッハヽヽ、私は駄目ですよ、生れてから未だ歌留多に勝つた事がないんで……だが何です、負傷者でもある樣でしたら救護員として出張しませう。』
 清子が着換の間に、靜子は富江の宿を訪ねたが、一人で先に行つたといふ事であつた。
 三人の女傘《かさ》が後になり先になり、穗の揃つた麥畑の中を睦《むつま》し氣に川崎に向つた。丁度鶴飼橋の袂に來た時、其處で落合ふ別の道から山内と出會した。山内は顏を眞赤《まつか》にして會釋して、不即不離《つかずはなれず》の間隔をとつて、いかにも窮屈らしい足取で、十間許り前方をチョコ/\と歩いた。
 程近い線路を、好摩《かうま》四時半發の上り列車が凄じい音を立てゝ過ぎた頃、一行は小川家に着いた。噪いだ富江の笑聲が屋外までも洩れた。岩手山は薄紫に※[#「目+夢の夕に代えて目」、32−上−9]《ぼ》けて、其肩近く靜なる夏の日が傾いてゐた。
 富江の外に、校長の進藤、準訓導の森川、加藤の弟の愼次、農學校を卒業したといふ馬顏の沼田、それに巡囘に來た松山といふ巡査まで上り込んで、大分話が賑つてゐた。其處へ山内も交つた。
 女組は一まづ別室に休息した。富江一人は彼室《あちら》へ行き此室《こちら》へ行き、宛然《さながら》我家の樣に振舞つた。お柳は朝から口喧しく臺所を指揮《さしづ》してゐた。
 晩餐の際には、嚴めしい口髭を生やした主人の信之も出た。主人と巡査と校長の間に持上つた鮎釣《あゆかけ》の自慢話、それから、此近所の山にも猿が居る居ないの議論――それが濟まぬうちに晩餐は終つて巡査は間もなく歸つた。
 軈て信吾の書齋にしてゐる離室《はなれ》に、歌留多の札が撒《ま》かれた。明るい五分心の吊洋燈《つるしランプ》二つの下に、入交りに男女の頭が兩方から突合つて、其下を白い手や黒い手が飛ぶ。行儀よく並んだ札が見る間に減つて、開放した室が刻々に蒸熱《むしあつ》くなつた。智惠子の前に一枚、富江の前に一枚……頬と頬が觸れる許りに頭が集る。『春の夜の――』と山内が妙に氣取つた節で讀上げると、
『萬歳ツ。』と富江が金切聲で叫んだ。智惠子の札が手際よく拔かれて、第一戰は富江方の勝に歸した。智惠子、信吾、沼田、愼次、清子の顏には白粉が塗られた。信吾の片髭が白くなつたのを指さして、富江は聲の限り笑つた。一同もそれに和した。沼田は片肌を脱ぎ、森川は立襟の洋服の釦を脱して風を入れ乍ら、乾き掛つた白粉で皮膚が痙攣《ひきつ》る樣なのを氣にして、顏を妙にモグ/\さしたので、一同は又笑つた。
『今度は復讐しませう。』と信吾が言つた。
『ホホヽヽ。』と智惠子は唯笑つた。
『新しく組を分けるんですよ。』と、富江は誰に言ふでもなく言つて、急《いそが》しく札を切る。

      六

 二度目の合戰が始つて間もなくであつた。靜子の前の「たゞ有明」の札に、對合《むかひあ》つた昌作の手と靜子の手と、殆んど同時に落ちた。此方が先だ、否、此方が早いと、他の者まで面白づくで騷ぐ。
『敗《ま》けてお遣りよ。昌作さんが可哀想だから。』と見物してゐたお柳が喙《くちばし》を容れた。不快な顏をして昌作は手を引いた。靜子は氣の毒になつて、無言で昌作の札を一枚自分の方へ取つた。昌作はそれを邪慳に奪ひ返した。其合戰が濟むと、昌作は無理に望んで讀手になつた。そして到頭終ひまで讀手で通した。
 何と言つても信吾が一番上手であつた。上の句の頭字を五十音順に列べた其配列法が、最初少からず富江の怨みを買つた。しかし富江も仲々信吾に劣らなかつた。そして組を分ける毎に、信吾と敵になるの
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