置いた癖に。』
『ホホヽヽ。そんなら言ひませうか。』
『聞いて上げませう。』
『あのね……』と、富江は探る樣な目附をして、笑ひ乍ら眞正面に信吾を見てゐる。
信吾は、其話が屹度智惠子の事だと察してゐる。で、恁《か》う此女に顏を見られると、擽られる樣な、かつがれてる樣な氣がして、妙に紛らかす機會がなくなつた。
『何です?』と、少し苛々《いら/\》した調子で言つた。
『ホホヽヽ。』と富江は又笑つた。『或る人がね。』
『或る人ツて誰?』
『まア。』
『可《よ》し/\。その或る人が怎《ど》うしたんです?』
『あの方をね。』と離室《はなれ》の方を頤で指す。
『吉野を。』と信吾の眼尻が緊つた。
『ホホヽヽ。』
『吉野を怎《ど》うしたんです?』
『……ですとサ。ホホヽヽ。』
『豈夫《まさか》? 神山|樣《さん》の口にや戸が閉《た》てられない。』と言つて、何を思つてか膝を搖つて大きく笑つた。
目的《あて》が外れたといふ樣に、富江は急に眞面目な顏をして、『眞箇《ほんとう》ですよ。』
『豈夫? 誰が其※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]事言つたんですか?』
『矢張り聞きたいんでせう?』
『聞きたいこともないが……然し其奴ア珍聞だ。』
『珍聞?』と、また勝誇つた眼附をして、『貴方も餘程頓馬ね!』
『怎《ど》うして?』
『怎うしてだと! ホヽヽヽ。』と、持つてゐる書で信吾の膝を突く。
『それより神山さん、誰が其※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《そんな》事言つたんですか?』
『確かな所から。』
『然し面白いなア。ハッハハ。眞箇《ほんと》だつたら實に面白い。可し/\、一つ吉野に揶揄《からか》つてやらう。』と一人|態《わざ》と面白さうに言ふ。
『其※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《そんな》に面白くつて?』
『面白いさ。宛然《まるで》小説だ!』
『然《さ》うね。この話は誰より一番信吾さんに面白いの。ね、然《さ》うでせう?』
『それはまた、怎《ど》うした譯です?』
『ね、然《さ》うでせう? 然うでせう?』
と、男を壓迫《おしつけ》る樣に言つて探る樣な眼を異樣に輝かした。そして、彈機《ばね》でも外れた樣に、[#「樣に、」は底本では「樣に」]
『ホホヽヽ。』と笑つた。
『ハハヽヽ。』と、信吾も爲方なしに笑つて、『實に詭辯家だな神山さんは!』
『詭辯家? 怎《ど》うせ然《さ》うよ。今の話も私が拵へたんだから!』
『否《いや》、其意味ぢやないんですよ。誰です、それを言つたのは?』
其顏を嘲る樣に眤《ぢつ》と見て、『矢張り氣に懸るわね、信吾さん!』
『莫迦な!』と言つたが、女に自分の心を探られてゐるといふ不快が信吾の頭を掠めた。『それより奈何です、その吉野の方へ行つてみませんか?』
『行きませう。』
信吾はつと立つて縁側に出ると、『吉野君』と大きく呼んだ。
『何だ?』と落着いた返事。
『晝寢してたんぢやないのか! 今神山さんが來たが、其方へ行つても可《い》いか?』
『來たまへ。』
『行きませう。』と富江を促して、信吾は先に立つ。富江は何か急に考へることでも出來た樣な顏をして、默つてその後に跟いた。縁側傳ひ、蔭つた庭の植込に蜩《ひぐらし》が鳴き出した。
四
今年の春の巴里のサロンの畫譜を披いて、吉野は何か昌作に説明して聞かしてゐた。
一通りの挨拶が濟むと、富江はすぐ立つて、壁に立掛けてある書きかけの水彩畫を見る。信吾はゴロリと横になつて、その畫のことを吉野と語る。
『昌作さん。』と富江が呼びかけた。『貴方昨日町へ被行《いらし》つて?』
『行つた。山内へ見舞に。』
『奈何《どう》でしたの、御病氣は?』と笑つてゐる。
『それや可哀想ですよ。臥《ね》たり起きたりだが、今年中に死ぬかも知れないなんて言つてるもの。』
『其※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《そんな》に惡いかねえ。それや可哀想だ。何しろあの體だからなア。』と、信吾は別に同情した風もなく言ふ。
『盛岡に歸るさうだ。四五日中に。』
『昌作さん。』と富江は又呼んだ。そして急しく吉野と信吾の顏を見※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]して、
『好い物上げませうか、貴方に?』
『何です?』
『好い物なら僕も貰ひたいな。』
『信吾さんにはいや。ねえ昌作|樣《さん》、上げませうか?』
『何だらうな!』と昌作は躊躇する。
『二人が喧嘩しちや可けないから僕が貰ひませうか?』
と吉野は淡白に笑ふ。
『ねえ昌作さん、誰方にも見せちや可けませんよ。』
『可し、志郎と二人で見る。』
『否《いゝえ》、貴方《あなた》一人で見なくちや可けないの
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