ンチックが殘つてるんですね。畢竟夢が殘つてるんですね。』
『は!』
『夢を見る暇も無い都會の烈しい戰爭の中で、間斷《ひつきり》なしの壓迫と刺戟を享けながら、切迫塞《せつぱつま》つた孤獨の感を抱いてゐる時ほど、自分の存在の意識の強い事はありませんね。それア苦しいですよ。苦しいけれど、矢張り新しい生活は其烈しい戰爭の中で營まれるんですね。……が、です、田舍へ來ると違ひます。田舍にはロマンチックが殘つてます。夢が殘つてます、叙情詩《リリック》が殘つてます。先刻も一人歩いてゐて然《さ》う思つたんですが、この靜かな廣い天地に自分は孤獨だ! と感じてもですね、それが何だか恁《か》う、嬉しい樣な氣がするんです。切迫塞つた苦しい、意識を刺戟する感じでなくて、餘裕のある、叙情的《リリカル》な調子《トーン》のある……畢竟周圍の空氣がロマンチックだから、矢張り夢の樣な感じですね。……僕は苦しくつて堪らなくなると何時でも田舍に逃げ出すんです。今度も然《さ》うです、畢竟、僕自身にもまだロマンチックが澤山殘つてます。自分の藝術から言へば出來るだけそれを排斥しなきや不可《いけな》い。然しそれが出來ない! 抽象的に言ふと、僕の苦痛が其努力の苦痛なんです、そして結局の所――』と激した調子で續けて來て、
『結局の所、何方が個人の生存――少くとも僕一個人の生存に幸福であるか解らない!』と聲を落した。
 智惠子は眤《ぢつ》と俯向《うつむ》いて、出來る丈け男の言ふ事を解さうと努めながら歩いてゐた。
『貴女は寂しい――孤獨だと思ふことがありますか?』
と、突然吉野が問うた。
『御座います!』と、智惠子は低く力を籠めて言つて、男の横顏を仰いだ。
『貴女は親兄弟にも友人にも言へない樣な心の聲を何に發表されるんです? 歌にですか、涙にですか?』
『神樣に……。』
『神樣に!』と、男は鸚鵡返しに叫んだ。『神樣に! 然うですねえ、貴女には神があるんですねえ!』
『僕にはそれが無い! 以前にはそれを色彩と形に現せると思つてゐたんですが、又、實際幾分づゝ現してゐたんですが、それがもう出來なくなつた。』と言ひ乍ら、吉野は無雜作に下駄を脱ぎ裾を捲《まく》つて、ヒタ/\と川原の石に口づけてゐる淺瀬にザブ/\と入つて行く。
『モウパッサンといふ小説家は自己の告白に堪へかねて死んだと言ひますがねえ……アヽ氣持が好い、怎《ど》うです、お入りになりませんか?』
『は。』と言つて智惠子は莞爾《につこり》笑つた。そして、矢張り跣足《はだし》になり裾を遠慮深く捲つて、眞白な脛の半ばまで冷かな波に沈めた。
『まア、眞箇《ほんと》に……!』
 吉野は膝頭の隱れる邊まで入つて行く。二人は暫し言葉が斷れた。螢が飛ぶ。子供らも二人の態を見て、我先にと裾を捲つて水に入つた。
 相對した彼岸の崖には、數知れぬ螢がパーッと光る。川の面が一面に燐でも燃える樣に輝く。
『あれッ!』『あれッ、新坊さんが!』と魂消《たまげ》つた叫聲《さけびごゑ》が女兒らと智惠子の口から迸つた。五歳の新坊が足を浚はれて、呀《あつ》といふ間もなく流れる。と見た吉野は、突然手を擧げて智惠子の自ら救はんとするを制した。
『大丈夫!』唯一言、手早く尻をからげてザブ/\と流れる子供の後を追ふ。子供は刻々中流へ出る、間隔は三間許りもあらう。水は吉野の足に絡《からま》る。川原に上つた子供らは聲を限りに泣き騷いだ。

      五

 川底の石は滑かに、流れは迅い。岸の智惠子が俄かの驚きに女兒《こども》等の泣き騷ぐも構はず、はら/\してる間に、吉野は危き足を踏みしめて十二三間も夜川の瀬を追驅けた。波がザブ/\と腰を洗つた。
 螢の光と星の影、處々に波頭の蒼白く飜へる間を、新坊はツブ/\と流れて行く。
 グイと手を延ばすと、小さい足が捉《つかま》つた。
『大丈夫!』と吉野は聲高く呼んだ。
『捉《つかま》りましたか?』と智惠子の聲。
『捉つた!』
 吉野は、濡れに濡れて呼吸《いき》も絶えたらしい新坊の體を、無造作に抱擁《だきかゝ》へて川原に引返した。其處へ、騷ぎを聞いて通行の農夫が一人、提灯を下げて降りて來た。
『何したべ? 誰が死んだがナ?』
『何有《なあに》、大丈夫!』と、吉野は水から上つた。丁度橋の下である。
『新坊さん、新坊さん!』と、智惠子は慌てゝ子供に手を添へて、『まア眞箇《ほんと》に! 怎うしませう!』と顫へてゐる。
『大丈夫ですよ!』と吉野は落着いた聲で言つて、子供の兩足を持つて逆樣に、小さい體を手荒く二三度振ると、吐出した水が吉野の足に掛つた。
 女兒《こども》等は恐怖に口を噤んで、ブル/\顫へて立つてゐる。小さいのはシク/\泣いてゐた。
『瀬が迅《はや》えだでなナ! これやはア先生|許《とこ》の子供だナ。』
と、農夫は提灯を翳《かざ》した。

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