と昔の事、否、他人の事の樣に思はれる。
 吉野は、今日町に行つて加藤で御馳走になつた事までも、既う五六日も十日も前の事の樣に思はれた。自分が餘程|以前《まへ》から此村にゐる樣な氣持で、先刻逢つて酒を強ひられた許りの村の有志――その中には清子の父なる老村長もゐた――の顏も、可也古くからの親しみがある樣に覺えた。
 いつしか高畠の杜を過ぎて、鶴飼橋の支柱が夜目にそれと見える樣になつた。急に高まつた川瀬の音が、靜かな、そして平かな心の底に、妙にしんみりした響きを傳へる。
 と、その川瀬の音に交つて、子供らの騷ぐ聲が聞え出した。
 橋の袂まで來た。不圖子供らの聲に縺れて、低い歌が耳に入る。
『……かーみはーあーいーなり。』
 仄白い人の姿が、朧氣に橋の上に立つてゐる。

      二

 橋の上の仄白い人影、それは智惠子であつた。
 信吾の歸つた後の智惠子は、妙に落膽《がつかり》して氣が沈んだ。今日一日の己が心が我ながら怪まれる。
『奈何《どう》したといふのだらう? 私はあの人を、思つてる……戀してるのか知ら!』
『否!』と強く自ら答へて見た。自分は假にも其※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《そんな》事を考へる樣な境遇ぢやない、兩親はなく、一人ある兄も手頼りにならず、又成らうともせぬ。謂はゞこの世に孤獨の自分は、傍目もふらずに自活の途を急がねばならぬ。それだのに、何故|這※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《こんな》……?
 懊《じ》れに懊《じ》れて待つた其人の、遂に來なかつた失望が、冷かに智惠子の心を嘲つた。二度と這※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《こんな》事は考へまい! と思ふ傍から、『矢張り女は全く放たれる事が出來ない。男は結局孤獨だ、死ぬまで。』と久子の兄に言つた其人の言葉などが思出された。書《ほん》を讀む氣もしない。學校へ行つてオルガンでも彈かうと考へても見た。うつかりすると取り留めのない空想が湧く……。
 日が暮れると、近所の女小供が螢狩に誘ひに來た。案外氣輕に智惠子はそれに應じて宿の二人の子供をも伴れて出た。出る時、加藤の玄關が目に浮んだ。其處には數々の履物に交つて赤革の夏靴が一足脱いであつた。小川のお客樣も來てゐると清子の言つたその時、智惠子は、あ、これだ! と其靴に目を留めたつけ!
 村で螢の名所は二つ、何方《どつち》に爲《し》ようと智惠子が言ひ出すと、子供らは皆|舟綱《ふなた》橋に伴れてつて呉れと強請《せが》んだ。
『彼方には男生徒が澤山行つてるから、お前達には取れませんよ。』恁《か》う智惠子が言つた。女兒等は、何有《なあに》男に敗《ま》けはしないと口々に騷いだが、結句智惠子の言葉に從つて鶴飼橋に來た。
 夏の夜、この橋の上に立つて、夜目《よめ》にも著《しる》き橋下の波の泡を瞰下《みおろ》し、裾も袂も涼しい風にはらめかせて、數知れぬ囁《さゝや》きの樣な水音に耳を澄した心地は長く/\忘られぬであらう。南岸の崖の木々の葉は、その一片々々《ひとつ/\》が光るかと見えるまで、無數の螢が集つてゐて、それが時を計つて、ポーッと一度に青く光る。川水も青く底まで透いて見える。と、一度にスッと暗くなる。また光る、また消える、また光る……。其中から、迷ひ出る樣に風に隨つて飛ぶのが、上から下から、橋の下を潜り、上に立つ人の鬢《びん》を掠《かす》める。低く飛んだのが誤つて波頭に呑まれてその儘あへなく消えるものもある。
 低くなつた北岸の川原にも、圓葉楊《まるばやなぎ》の繁みの其方此方、青く瞬く星を鏤めた其隅々には、暗に仄めく月見草が、しと/\と露を帶びて、一團づゝ處々に咲き亂れてゐる。
 女兒等は直ぐ川原に下りて、キャッ/\と騷ぎ乍ら流れる螢を追つてゐる。智惠子は何がなしに、唯何がなしに橋の上にゐたかつた。其※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《そんな》事は無い! と否み乍らも、何がなしに、若しや、若しや、といふ朦乎《ぼんやり》した期待が、その通り路を去らしめなかつた。
 今日一日の種々な心持と違つた、或る別な心持が、新しく智惠子の心を領した。そこはかとなき若き悲哀――手頼りなさが、消えみ明るみする螢の光と共に胸に往來して、他《ひと》にとも自分にとも解らぬ、一種の同情が、自《おのづ》と呼吸を深くした。
 幸福とは何か? 這※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《こんな》考へが浮んだ。神の愛にすがるが第一だ、と自分に答へて見た。不圖智惠子は、今日一日全く神に背いて暮した樣な氣がして來た。『神に遁れる、といふ樣な事も有得るですね。
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