三

 やゝ急な西向の傾斜、幾年の落葉の朽ちた土に下駄が沈んで、緑の屋根を洩れる夏の日が、處々、虎斑《とらふ》の樣に影を落して、そこはかとなく搖めいた。細き太き、數知れぬ樹々の梢は參差として相交つてゐる。
 唆かす樣な青葉の香が、頬を撫で、髮に戲れて、夏蔭の夢の甘さを吹く。
『ククヽヽクウ』と、すぐ頭の上、葉隱れた晝杜鵑が啼く。醉つた樣な、樂しい樣な、切ない樣な、若い胸の底から漂ひ出る樣な聲だ。その聲が、ク、ク、ク、と後を刻んで、何處ともなき青葉の戰《さや》ぎ!
 と、少し隔つた彼方から、『ククヽヽクウ』と同じ聲が起る。
『ククヽヽクウ。ククヽヽクウ。』と、後の方からも。
『漂へる聲《ワンダリングブォイス》』とライダル湖畔の詩人が謳つた。それだ、全くそれだ。甘き青葉の香を吸ひ、流れるこの鳥の聲を聞いては、身は詩人でなくても、魂が胸を出て、聲と共にそこはかとなく森の下蔭を小迷《さまよ》ふてゆく思ひがする。
 聲の所在《ありか》を覓《もと》むる如く、キョロ/\と落着かぬ樣に目を働かせて、徑もなき木陰地《こさぢ》の濕りを、智惠子は樹々の間を其方に拔け此方に潜る。夢見る人の足取とは是であらう。髮は肩に亂れ、胸に波打ち、はら/\と顏にも懸る。それを拂はうとするでもない。
 故もなく胸が騷いでゐる。醉つた樣な、樂しい樣な、切ない樣な……宛ら葉隱れの鳥の聲の、何か定めなき思ひが、總身の脈を亂してゐる。
『ククヽヽクウ』と鳥の聲。
「私ほど辛い悲いものはない!」
 恁う譯のないことを、何がなしに心に言つてみた。何が辛いのか、何が悲しいのか、それは自分では解らない。たゞ然う言つて見たかつたのだ。言つた所で、別に辛くも悲しくもない。
「吉野さんが町に、加藤の家に來てゐる。」智惠子に解つてるのは之だけだ。
 初めて逢つたのは鶴飼橋の上だ。その時の、俥の上の男の容子は、今猶明かに心に殘つてゐる。然し言葉を交したでもない。友の靜子は耳の根迄紅くなつてゐた。その靜子は又、自分とあの人が端なくも汽車に乘合せて盛岡に行く時、田圃に出て手巾を振つた。靜子の底の底の心が、何故か自分に解つた樣な氣がする。
『何故あの時、私はあの人の後ろに隱れたらう?』恁う智惠子は自分に問うて見る。我知らず顏が紅くなる。
 其晩、同じく久子の家に泊つた。久子兄妹とあの人と自分と、打伴れて岩手公園に散歩した。甘き夏の夜の風を、四人は甚※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]に嬉しんだらう! 久子の兄とあの人との會話が、解らぬ乍らに甚※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]に面白かつたらう!
『君は天才なんだ。』恁う久子の兄が幾度か眞摯に言つた。何かの話の時、『矢張り女といふものは全く放たれる事が出來ん。男は結局一人ぽつちよ、死ぬまで。』とあの人が言つた!
 翌日久子と大澤に行つて、昨日午前再び下小路なる久子の家まで歸つた。
『日向樣は何日お歸りになります!』恁うあの人が言つた。
『明日になさいな、ねえ!』と久子が側から言つた。
『吉野さんも然う遊ばせな何卒《どうぞ》。』
『否《いや》、僕は今日午後に發ちます。』
 遂に同じ汽車で歸つて、再會を約して好摩が原で別れた。
『それだけだ。』と智惠子は言つて見た。何が(それだけ)なのか解らぬ。(それだけ)が何れだけなのか解らぬ。
 解つてるのは、その吉野が今昌作と二人加藤の家にゐる事だけだ。或はもう、加藤の家を出たかも知れぬ。出て而して、何處へ? 何處へ?
『ククヽヽクウ。』といふ聲は遙《ずつ》と後ろに聞えた。智惠子は何時しか雜木の木立を歩み盡きて、幾百本の杉の暗く茂つた、急な坂の上に立つてゐた。
 きつと其下の方を見て居たが、何を思つてか、智惠子は忙しく其急な坂を下り始めた。

      四

 ダラ/\と急な杉木立の、年中日の目を見ぬ仄暗い坂を下り盡すと、其處は町裏の野菜畑が三角形に山の窪みへ入込んで、其奧に小さな柾葺《まさぶき》の屋根が見える。大窪の泉と云つて、杉の根から湧く清水を大きい据桶に湛へて、雨水を防ぐ爲に屋根を葺いた。町の半數の家々ではこの水で飯を炊《かし》ぐ。
 蓊欝《こんもり》と木が蔽《かぶ》さつてるのと、桶の口を溢れる水銀の雫の樣な水が、其處らの青苔や圓い石を濡らしてるのとで、如何な日盛りでも冷い風が立つて居る。智惠子は不圖渇を覺えた。まだ午飯《ひるめし》に餘程間があると見えて、誰一人水汲が來てゐない。
 重い柄杓に水を溢れさせて、口移しに飮まうとすると、サラリと髮が落つる。髮を被いた顏が水に映つた。先刻から斷間《しきり》なしに熱《ほて》つてるのに、四邊の青葉の故か、顏が例《いつも》より青く見える。
 智惠子は二口許り飮んだ。齒がキリ/\
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