あ日向先生、何日お歸りになりましたの? さ何卒《どうぞ》。』
『は有難う。昨日夕方に歸りました許りで。』
『お樂みでしたわねえ。さ何卒お上り下さいまし、……あの小川さんのお客樣も被來《いらし》てますから。』
『は?』と智惠子は、脱ぎかけた下駄を止めた。
『吉野さんとか被仰る、畫をお描きになる……貴女にも盛岡でお目にかゝつたとか被仰つてで御座いますよ。』
『あの、吉野さんが?』
『え。宅が小川さんで二三度お目にかゝりました相で、……昌作さんとお二人。ま何卒《どうぞ》。』
『は有難う。あのう……』と言ひ乍ら智惠子は懷から例の手紙を取出して、手短に其由來を語つて清子に渡した。
『ま然うでしたか。それは怎うも。……それは然うと、さ、さ。』と。手を引く許りにする。
『あの一寸學校に行つて見なければなりませんから、何れ後で。』
『あら、日向樣、其※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]貴女……。』と、清子が捉へる袂を、スイと引いて、
『眞箇《ほんと》よ、奧樣。何れ後で。』
 智惠子は逃げる樣にして戸外に出た、と、忽ち顏が火の樣に熱つて、恐ろしく動悸がしてるのに氣がついた。

      二

 加藤の玄關を出た智惠子は、無意識に足が學校の方へ向つた。莫迦に胸騷ぎがする。
「何故|那※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《あんな》に狼狽《うろた》へたらう?」恁う自分で自分に問うて見た。
「何故那※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]に狼狽《うろた》へたらう? 吉野さんが被來《いらしつ》てゐたとて! 何が怖かつたらう! 清子さんも可笑しいと思つたであらう! 何故那※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]に狼狽《うろたへ》たらう? 何も譯が無いぢやないか!」
 理由は無い。
 智惠子は一歩毎に顏が益々上氣して來る樣に感じた。何がなしに、吉野と昌作が後ろから急ぎ足で追驅けて來る樣な氣がする。それが、一歩々々に近づいて來る……
 其※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]事は無い、と自分で譴《たしな》めて見る、何時しか息遣ひが忙しくなつてゐる。
 取留めもなく氣がそはついてるうちに歩くともなくもう學校の門だ。つと入つた。
 職員室の窓が開いて、細い竿釣が一間許り外に出てゐる。宿直の森川は、シャツ一枚になつて、一生懸命釣道具を弄《いぢく》つてゐた。
 不圖顏を上げると、
『オヤ、日向さん、何時お歸りになりました?』
『は、あの、昨日夕方に。』と、外に立つて頭を下げる。洗ひ髮がさらりと肩から胸へ落つる。智惠子は、うるさい樣にそれを手で後ろにやつた。
『面白かつたでせう? さ、まあお上りなさい。』
『否《いゝえ》、あの。』と息が少し切れる。『あの私宛の手紙でも參つてゐませんでせうか?』
『奈何《どう》でしたか! あ、來ませんよ、神山樣の方の間違です。まあお上りなさい。』
『は有難う御座います。一寸あの、一寸、後ろの山へ行つて見ますから。』
『山へ? 茸狩はまだ早いですよ。ハヽヽ。ま可いでせう?』
『は、何れ明日でも。』と行掛ける。
『あ、日向樣、貴女《あなた》に少しお願ひがありますがねえ。』
『何で御座いますか?』
『何有《なあに》眞《ほん》の些とした事ですがね。』と、森川は笑つてゐる。
『何で御座いますか、私に出來る事なら……。』と智惠子は何時になく焦《もど》かし相な顏をした。
『出來る事ですとも。』また笑つて、『その何ですよ、過日《こなひだ》、否《いや》昨日か、神山樣にも一日お願ひしたんですがね。その、私は鮎釣に行きますから、御都合の可い時一日學校に被來《いらつしや》つて下さいませんか?』
『は、可《よ》う御座いますとも。何日《いつ》でも貴方の御出懸けになる時は、あの大抵の日は小使をお寄越し下されば直ぐ參ります。』
『然うですか。ぢやお願ひ致しますよ、濟みませんが。』
『何日でも……。』と言つて智惠子は、足早に裏の方に※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]つた。
 裏は直ぐ雜木の山になつて、下暗い木立の奧がこんもりと仰がれる。校舍の屋根に被《かぶ》さる樣になつた青葉には、楢もあれば、栗もある。鮮やかな色に重なり合つて。
 便所の後ろになつてゐる上り口から、智惠子はスタスタと坂を登つた。
 木立の中から、心地よく濕つた風が顏へ吹く。と、そのこんもりした奧から樂しさうな晝杜鵑《ひるほとゝぎす》の聲。
 聲は小迷《さまよ》ふ樣に、彼方此方《あちこち》、梢を渡つて、若き胸の轟きに調べを合せる。
 智惠子は躍る樣な心地になつて、つと青葉の下蔭に潜り込んだ。

   
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