《あぶ》な氣に下駄を穿《つゝ》かけたが、歸つて來てそれを脱ぐと、もう立つてる勢ひがなかつた。で、臺所の板敷を辛《やつ》と這つて來たが、室に入ると、布團の裾に倒れて了つた。抉られる樣に腹が痛む。子供等はまだ起きてない。家の中は森としてゐる。窓際の机の上にはまだ洋燈《ランプ》が曚然《ぼんやり》點《とも》つてゐた。
 智惠子は堅く目を瞑つて、幽かに唸りながら、不圖、今し方戸外へ出た時まだ日の出前の水の樣な朝光《あさかげ》が、快く流れてゐた事を思ひ出した。
「もう夜が明けた。」と覺束なく考へると、自分は何日からとも知れず、長い/\間|恁《か》うして苦しんでゐた樣な氣がする。程經てから前夜の事が思ひ出された。それも然し、ずつとずつと以前の事のやうだ。
「今日あの方が來て下さるお約束だつた! 然うだ、今日だ、もう夜が明けたのだもの!……。すると今日は盆の十五日だ。昨日は十四日……然うだ、今日は十五日だ!」
 喧しく雀が鳴く。智惠子はそれを遙《ずつ》と遠いところの事の樣に聞くともなく聞いた。
『先生……先生!』と遠くで自分を呼ぶ。不圖氣がつくと、自分は其處で少し交睫《まどろ》みかけたらしい。お利代は加藤醫師を伴れて來て、心配氣な顏をして起してゐる。
『先生、まア恁※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]所に寢て、お醫師樣が被來《いらつしや》いましたよ。』
『まア濟みません。』然う言つてお利代に手傳はれ乍ら臥床の上に寢せられた。
 室には夜ツぴて點《つ》けておいた洋燈《ランプ》の油煙やら病人の臭氣やらがムッと籠つてゐた。お利代は洋燈《ランプ》を消し、窓を明けた。朝の光が涼しい風と共に流れ込んで、髮亂れ、眼凹み、皮膚の澤《つや》なく弛んだ智惠子の顏が、もう一週間も其餘も病んでゐたものゝ樣に見えた。
 加藤は先ず概略の病状を訊いた。智惠子は痛みを怺へて問ふがまゝに答へる。
『不可《いけ》ませんなア!』と醫師は言つた。そして診察した。
 脈も體温も少し高かつた。舌は荒れて、眼が充血してゐる。そして腹を見た。
『痛みますか?』と、少し脹つてゐる下腹の邊を押す。
『痛みます。』と苦し氣に言つた。
『此處は?』
『其處も。』
『フム。』と言つて、加藤は腹一帶を輕く擦《さす》りながら眉を顰めた。
 それからお利代を案内に裏の便所へ行つて見た。
「赤痢だ!」と
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