》つてゐた。信吾は何がなしにわが家ながら閾《しきい》が高い樣な氣がして、成るべく音を立てぬ樣にして入つた。
八
家に入つた信吾の心は、妙に臆《ひる》んでゐた。彼は富江と別れて十幾町の歸路を、言ふべからざる不愉快な思ひに追はれて來た。烈しい××××××××××××しい疲勞が、今日一日の苛立《いらだ》つた彼の心を彌更に苛立たせた。
『淺猿しい、淺猿しい!』と、彼は幾度か口に出して自分を罵つた。彼はもう此儘人知れず何處かへ行つて了ひたい樣な氣がした。飽くを知らざる富江の餓ゑた顏を思出すと、言ふべからざる厭惡の念が起る。そして又、段々家へ近附くにつれて、戀仇の吉野に對する自暴腹《やけつぱら》な怒りが強く發した。其怒りが又彼を嘲る。信吾は人に顏を見られたくなかつた。
で、成るべく音立てぬ樣に縁側傳ひに自分の室に行く。家中もう寢て了つたと見えて、森としてゐた。と、離室に續く縁側に輕い足音がして、靜子が出て來た。四邊《あたり》は薄暗い。
『あら兄樣、遲かつたわねえ。何處に居たんですか、今迄?』
『何處でも可いぢやないか!』と、聲は低く、然し慳貪《けんどん》だ。
『まア!』
信吾は、わが仇の吉野の室に妹が行つてゐたと思ふと、抑へきれぬ不快な憤怒が洪水の樣に頭に溢れた。
『貴樣こそ何處に行つてるんだ? 夜《よる》夜中人が寢て了つてから!』
靜子は驚いて目を丸くして立つてゐる。それが、何か嚴しく詰責でもされる樣で、信吾の憤怒は更に燃える。
『莫迦野郎! 何處に行つてるんだ?』と言ふより早く一つ靜子を擲つた。
靜子は矢庭に袂を顏にあてた。
『兄樣……其樣《そんな》……』
『此方へ來い。』と、信吾は荒々しく妹の手を引張つて、自分の室に入るとドッと突倒した。
『此畜生! 親や兄の眼を晦まして、……』
『わツ。』と靜子は倒れた儘で聲をあげた。先刻町から歸つてから、待てども/\兄が歸らぬ。母も叔母も何とも言つてくれぬだけ媒介者との話の成行《なりゆき》が氣にかゝつた。自分から聞かれる事でもなく、手頼るは兄の信吾、その信吾が今日|媒介者《なかうど》が來たも知らずにゐると思ふと、もう心配で/\堪らなくなつて、今も密《そつ》と吉野の室に行つて、その歸りの遲きを何の爲かと話してゐたのである。
靜子は故なき兄の疑ひと怒が、口惜しい、恨めしい、辯解をしようにも喉が塞つて、たゞ堅く/
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