り、不快な夢でも見た後の様に、妙に燻《くす》んだ顔をして胡坐《あぐら》を掻いてゐた。富江の声や足音は先《さつき》から耳についてゐる。が、心は智恵子のことを考へてゐた。
或は一人、或は吉野と二人、信吾は此月に入つてからも三四度智恵子を訪ねた。二人の話はモウ以前の様に逸《はづ》まなくなつた。吉野が来てからの智恵子は、何処となく変つた点《ところ》が見える。さればと言つて別に自分を厭《いと》ふ様な様子も見せぬ。
かの新坊の溺死を救けた以来、吉野が一人で、或は昌作を伴れて、智恵子を訪ねることも、信吾は直ぐに感付いてゐた。二人の友人の間には何日しか大きい溝が出来た。信吾は苛々《いらいら》した不快な感情に支配されてゐる。
いつそ結婚を申込んでやらうか、と考へることがないでもない。が、信吾は左程までに深く智恵子を思つてるのでもないのだ。高が田舎の女教員だ! といふ軽侮が常に頭脳《あたま》にある。確固《しつかり》した女だとも思ふ。確固した、そして美しい女だけに、信吾は智恵子をして他の男――吉野を思はしめたくない。何といふ理由なしに。自分には智恵子に思はれる権利でもある様に感じてゐる。『吉野を帰して
前へ
次へ
全217ページ中166ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
石川 啄木 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング