、ブラリ/\と辿る心境《ここち》は、渠《かれ》が長く/\忘れてゐた事であつた。北上川の水音は漸々《だんだん》近くなつた。足は何時しか、町へ行く路を進んでゐた。
 轟然たる物の音響《ひびき》の中、頭を圧する幾層の大廈《たいか》に挾まれた東京の大路を、苛々《いらいら》した心地《ここち》で人なだれに交つて歩いた事、両国近い河岸《かし》の割烹店《レストーラント》の窓から、目の下を飛ぶ電車、人車、駈足をしてる様な急《いそが》しい人々、さては、濁つた大川を上り下りの川蒸気、川の向岸《むかう》に立列んだ、強い色彩《いろ》の種々《いろいろ》の建物、などを眺めて、取留《とりとめ》もない、切迫塞《せつぱつま》つた苦痛《くるしみ》に襲《おそは》れてゐた事などが、怎《ど》うやら遙《ずつ》と昔の事、否《いや》、他人の事の様に思はれる。
 吉野は、今日町に行つて加藤で御馳走になつた事までも、既《も》う五六日も十日も前の事の様に思はれた。自分が余程《よつぽど》以前から此村にゐる様な気持で、先刻《さつき》逢つて酒を強ひられた許りの村の有志――その中には清子の父なる老村長もゐた――の顔も、可也古くからの親みがある様に覚
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