詩《リリツク》が残つてます。先刻《さつき》も一人歩いてゐて然う思つたんですが、この静かな広い天地に自分は孤独《ひとりぼつち》だ! と感じてもですね、それが何だか恁《か》う、嬉しい様な気がするんです。切迫塞つた苦しい、意識を刺戟する感想《かんじ》でなくて、余裕のある、叙情的《リリカル》な調子《トーン》のある……畢竟《つまり》周囲《あたり》の空気がロマンチツクだから、矢張夢の様な感想ですね。……僕は苦しくつて怺《たま》らなくなると何時でも田舎に逃出すんです。今度も然うです、畢竟《つまり》、僕自身にもまだロマンチツクが沢山《うんと》残つてます。自分の芸術から言へば出来るだけそれを排斥しなきや不可《いけな》い。然しそれが出来ない! 抽象的に言ふと、僕の苦痛が其努力の苦痛なんです。そして結局の所――』と激した語調《てうし》で続けて来て、
『結局の所、何方《どつち》が個人の生存――少くとも僕一個人の生存に幸福であるか解らない!』と声を落した。
智恵子は眤《じつ》と俯《うつ》むいて、出来る丈男の言ふ事を解さうと努めながら歩いてゐた。
『貴女は寂しい――孤独《ひとりぼつち》だと思ふことがありますか?』と、突然吉野が問うた。
『御座います!』と、智恵子は低く力を籠めて言つて、男の横顔を仰いだ。
『貴女は親兄弟にも友人にも言へない様な心の声を何に発表されるんです? 唱歌《うた》にですか、涙にですか?』
『神様に……。』
『神様に!』と、男は鸚鵡《あうむ》返しに叫んだ。『神様に! 然うですねえ、貴女には神があるんですねえ!』
『…………』
『僕にはそれが無い! 以前にはそれを色彩《いろ》と形に現せると思つてゐたんですが、又、実際幾分づゝ現してゐたんですが、それがモウ出来なくなつた。』と言ひ乍ら、吉野は無造作に下駄を脱ぎ、裾を捲つて、ヒタ/\と川原の石に口づけてゐる浅瀬にザブ/\と入つて行く。
『モウパツサンといふ小説家は、自己の告白に堪へかねて死んだと言ひますがねえ……アヽ[#「アヽ」は底本では「アゝ」]、気持が好い、怎《ど》うです、お入りになりませんか?』
『ハ。』と言つて智恵子は嫣乎《につこり》笑つた。そして、矢張|跣足《はだし》になり裾を遠慮深く捲つて、真白き脛の半ばまで冷かな波に沈めた。
『マア、真箇《ほんと》に……!』
吉野は膝頭の隠れる辺《あたり》まで入つて行く。二人は暫し言葉が断れた。螢が飛ぶ。小供らも二人の態《さま》を見て、我先にと裾を捲つて水に入つた。
相対した彼岸《かなた》の崕《がけ》には、数知れぬ螢がパーツと光る。川の面が一面に燐でも燃える様に輝く。
『アレツ!』『アレツ、新坊|様《さん》が!』と魂消《たまぎ》つた叫声《さけび》が女児《こども》らと智恵子の口から迸《ほとば》しつた。五歳《いつつ》の新坊が足を浚《さら》はれて、呀《あつ》といふ間もなく流れる。と見た吉野は、突然《いきなり》手を挙げて智恵子の自ら救はんとするを制した。
『大丈夫!』
唯|一言《ひとこと》、手早く尻をからげてザブ/\と流れる小供の後を追ふ。小供は刻々|中流《おき》へ出る、間隔は三間許りもあらう。水は吉野の足に絡《からま》る。川原に上つた小供らは声を限りに泣騒いだ。
(九)の五
川底の石は滑かに、流は迅《はや》い。岸の智恵子が俄《には》かの驚きに女児《こども》らの泣騒ぐも構はずハラ/\してる間《うち》に、吉野は危き足を踏しめて十二三間も夜川の瀬を追駆《おつか》けた。波がザブ/\と腰を洗つた。
螢の光と星の影、処々に波頭の蒼白く翻へる間を、新坊はヅブ/\と流れて行く。
グイと手を延ばすと、小い足が捉《つかま》つた。
『大丈夫!』と吉野は声高く呼んだ。
『捉りましたか?』と智恵子の声。
『捉つた!』
吉野は、濡れに濡れて呼吸《いき》も絶えたらしい新坊の体を、無造作に抱擁《だきかか》へて川原に引返した。其処へ、騒ぎを聞いて通行《とほりすがり》の農夫《ひやくしやう》が一人、提灯を携げて下りて来た。
『何したべ? 誰が死んだがナ?』
『何有《なあに》、大丈夫!』
と、吉野は水から上つた。恰度《ちやうど》橋の下である。
『新坊さん、新坊さん!』と智恵子は慌てて小供に手を添へて、『まア真箇《ほんと》に! 怎《ど》うしませう!』と顫《ふる》へてゐる。
『大丈夫ですよ。』
と吉野は落着いた声で言つて、小供の両足を持つて逆様に、小い体を手荒く二三度|揮《ふ》ると、吐出《はきだ》した水が吉野の足に掛つた。
女児等《こどもら》は恐怖《おそれ》に口を噤《つぐ》んで、ブル/\顫へて立つてゐる。小いのはシク/\泣いてゐた。
『瀬が迅《はや》えだでなア! これやハア先生|許《どこ》の小供《わらし》だナ。』
と、農夫《ひやくしやう》は提灯を翳《かざ》した。
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