すねえ!』
『えゝ。』
 不図話が断《き》れた。橋の下の川原には、女児等《こどもら》が夢中になつて螢を追つてゐる。
 智恵子は、胸を欄干に推当てた故《せゐ》か、幽かに心臓の鼓動が耳に響く。其《その》間《ま》にも崖の木の葉が、光り又消える。
『貴女は、時々|被来《いらつしや》るんですか、此処等《ここいら》に?』
『否。……滅多に夜は出ませんですけれど。……今日は余り暑かつたもんで御座いますから!』
『あゝ然《さ》うですか!』
 話はまた断《た》れた。
『随分沢山な螢で御座いますねえ!』と、今度は智恵子が言つた。
『えゝ、東京ぢや迚《とて》も見られませんねえ。』
『左様で御座いませうねえ。』
『ア、貴女は以前東京に被居《いらしつ》たんですつてね?』
『え。』
『余程《よつぽど》以前ですか?』
『六七年前までゝ御座います。』
『然うでしたか!』と、吉野はただ何か言はうとしたが、立入つた身上《みのうへ》の話と気が付いて、それなり止めた。
 二人は又|接穂《つぎほ》なさに困つた。そして長い事|黙《もだ》してゐた。吉野は既《も》う顔の熱《ほて》りも忘られて、酔醒《よひざめ》の佗しさが、何がなしの心の要求《のぞみ》と戦つた。ツイ四五日前までは不見不知《みずしらず》の他人であつた若い美しい女と、恁《か》うして唯二人人目も無き橋の上に並んでゐると思ふと、平生《へいぜい》烈しい内心の圧迫を享け乍ら、遂《つい》今迄その感情の満足を図《はか》らなかつた男だけに、言ふ許りなき不安が、『男は死ぬまで孤独《ひとりぼつち》だ!』といふ渠《かれ》の悲哀《かなしみ》と共に、胸の中に乱れた。
 若しも智恵子が、渠の嘗《かつ》て逢つた様な近づき易き世の常の女であつたなら、渠は直ぐに強い軽侮の念を誘ひ起して、自《みづか》ら此不安から脱れたかも知れぬ。然し眼前の智恵子は、渠の目には余りに清く余りに美しく、そして、信吾の所謂|近代的女性《モダーンウーマン》で無いことを知つた丈に其不安の興奮が強かつた。自制の意《こころ》が酔醒《よひざめ》の佗しさをかき乱した。豊かな洗髪を肩から背に波打たせて、眤《じつ》と川原に目を落して、これも烈しく胸を騒がせてゐる智恵子の歴然《くつきり》と白い横顔を、吉野は不思議な花でも見る様に眺めてゐた。
 と、飛び交ふ螢の、その一つが、スイと二人の間を流れて、宙に舞ふかと見ると、智恵子の肩を辷《すべ》つて[#「肩を辷《すべ》つて」は底本では「肩《すべ》を辷つて」]髪に留つた。パツと青く光る。
『ア、』と吉野は我知らず声を立てた。智恵子は顔を向ける。其|機会《ひやうし》に螢は飛んだ。
『今螢が留つたんです、貴女の髪に。』
『マア!』と言つて、智恵子は暗《やみ》ながら颯《さつ》と顔を染めた。今まで男に凝視《みつめ》られてゐたと思つたので。
 で、二人の目は期せずして其一疋の螢の後を追うた。フラ/\と頭の上に漂うて、風を喰つた様に逆《さかさ》まに川原に逃げる。
『アレ、先生の方から!』
と、小供の一人が其螢を見付けたらしく、下から叫んだ。
『アレ! アレ!』
『先生! 先生!』
 と女児《こども》らは騒ぐ、螢はツイと逸《そ》れて水の上を横様《よこさま》に。
『先生! 下へ来て取つて下《くな》ンせ!』と一人が甘えて呼ぶ。
『今行きますよ。』と智恵子は答へた。下からは口を揃へて同じ事を言ふ。
『行つて見ませう!』恁《か》う吉野が言つて欄干から離れた。
『ハ、参りませう。』
『御迷惑ぢやないんですか貴女は?』
『否《いいえ》。』と答へる声に力が籠つた。『貴方こそ?』

     (九)の四

 昼は足を※[#「燬」の「臼」に代えて「白」、264−上−8]《や》く川原の石も、夜露を吸つて心地よく冷えた。処々に咲き乱れた月見草が、暗《やみ》に仄かに匂うてゐる。その間を縫うて、二人はそこはかとなく逍遙《さまよ》うた。
『その感想《かんじ》――孤独の感想《かんじ》がですね。』と、吉野は平生《いつも》の興奮した語調《てうし》で語り続けてゐた。『大都会の中央の轟然たる百万の物音の中にゐて感ずる時と、恁うした静かな村で感ずる時と、それア違ひますよ。矢張《やつぱり》何ですかね、新しい文明はまだ行き渡つてゐないんで、一歩都会を離れると、世界にはまだ/\ロマンチツクが残つてるんですね。畢竟《つまり》夢が残つてるんですね。』
『ハ!』
『夢を見る暇もない都会の烈しい戦争の中で、間断《ひつきり》なしの圧迫と刺戟を享けながら、切迫塞《せつぱつま》つた孤独の感を抱いてる時ほど、自分の存在の意識の強い事はありませんね。それア苦しいですよ。苦しいけれど、矢張新しい生活は其烈しい戦争の中で営まれるんですね。……が、です、田舎へ来ると違ひます。田舎にはロマンチツクが残つてます。夢が残つてます、叙情
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