路傍《みちばた》の草を自暴《やけ》に薙倒《なぎたふ》した。
(九)の一
叔母一行が来て家中《やうち》が賑つてる所へ、夕方から村の有志家が三四人、門前寺の梁《やな》に落ちたといふ川鱒を携《も》つて来て酒が始つたので、病床のお柳までが鉢巻をして起きるといふ混雑、客自慢の小川家では、吉野までも其席に招致《よびだ》した。燈火《あかり》の点《つ》く頃には、少し酒乱の癖のある主人の信之が、向鉢巻をしてカツポレを踊り出した。
朝から昌作の案内で町に出た吉野の帰つた時は、先に帰つた信吾が素知らぬ顔をして、客の誰彼と東京|談《ばなし》をしてゐた。無理強ひの盃四つ五つ、それが全然《すつかり》体中に循《めぐ》つて了つて、聞苦しい土弁《どべん》の川狩の話も興を覚えぬ。真紅な顔をした吉野は、主人のカツポレを機《しほ》に密乎《こつそり》と離室《はなれ》に逃げ帰つた。
其縁側には、叔母の小供等や小妹《いもうと》達を対手に、静子が何やら低く唱歌を歌つてゐた。
『アヽ、全然《すつかり》酔つちやつた。』
恁《か》う言つて吉野は縁に立つ。
『御迷惑で御座いましたわね。お苦しいんですか其※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《そんな》に?』
燈火《あかり》に背いた其|笑顔《ゑがほ》が、何がなしに艶に見えた。涼しい夜風が遠慮なく髪を嬲《なぶ》る。庭には植込の繁みの中に螢が光つた。小供達は其《その》方《はう》にゆく。
『飲みつけないもんですからね。然し気持よく酔ひましたよ。』
と言ひ乍ら、吉野は庭下駄を穿いた。其実、顔がポツポと熱《ほて》るだけで、格別酔つた様な心地でもない。
『夜風に当ると可《よ》う御座いますわ。』
『え、些《ちよつ》と歩いて見ませう。』と、酒臭い息を涼しい空に吹く。月の無い頃で、其処此処に星がチラついた。
『静や、静や。』と母屋の方からお柳の声。
吉野はブラリ/\と庭を抜けて、圃路《はたけみち》に出た。追駈ける様な家《うち》の中の騒ぎの声の間々に、静かな麦畑の彼方《かなた》から水の音がする。暗《やみ》を縫うて見え隠れに螢が流れる。
夜涼《すずしさ》が頬を舐《な》めて、吉野は何がなしに一人居る嬉しさを感じた。恁うした田舎の夜路を、何の思ふことあるでもなく、微酔《ほろよひ》の足の乱れるでもなく、シツトリとした空気を胸深く吸つて、ブラリ/\と辿る心境《ここち》は、渠《かれ》が長く/\忘れてゐた事であつた。北上川の水音は漸々《だんだん》近くなつた。足は何時しか、町へ行く路を進んでゐた。
轟然たる物の音響《ひびき》の中、頭を圧する幾層の大廈《たいか》に挾まれた東京の大路を、苛々《いらいら》した心地《ここち》で人なだれに交つて歩いた事、両国近い河岸《かし》の割烹店《レストーラント》の窓から、目の下を飛ぶ電車、人車、駈足をしてる様な急《いそが》しい人々、さては、濁つた大川を上り下りの川蒸気、川の向岸《むかう》に立列んだ、強い色彩《いろ》の種々《いろいろ》の建物、などを眺めて、取留《とりとめ》もない、切迫塞《せつぱつま》つた苦痛《くるしみ》に襲《おそは》れてゐた事などが、怎《ど》うやら遙《ずつ》と昔の事、否《いや》、他人の事の様に思はれる。
吉野は、今日町に行つて加藤で御馳走になつた事までも、既《も》う五六日も十日も前の事の様に思はれた。自分が余程《よつぽど》以前から此村にゐる様な気持で、先刻《さつき》逢つて酒を強ひられた許りの村の有志――その中には清子の父なる老村長もゐた――の顔も、可也古くからの親みがある様に覚えた。
いつしか高畠《たかばたけ》の杜《もり》を過ぎて、鶴飼橋の支柱が、夜目にそれと見える様になつた。急に高まつた川瀬の音が、静かな、そして平かな心の底に、妙にシンミリした響きを伝へる。
と、その川瀬の音に交つて、小供らの騒ぐ声が聞え出した。
橋の袂まで来た。不図《ふと》小供らの声に縺《もつ》れて、低い歌が耳に入る。
『……かーみはーあーいーなりー。』
仄白い人の姿が、朧気《おぼろげ》に橋の上に立つてゐる。
(九)の二
橋の上の仄白い人影、それは智恵子であつた。
信吾の帰つた後の智恵子は、妙に落胆《がつかり》して気が沈んだ。今日一日の己《おの》が心が我ながら怪まれる。
『奈何《どう》したといふのだらう? 私はアノ人を、思つてる…………恋してるのか知ら!』
『否《いな》!』と強く自ら答へて見た。自分は仮にも其※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《そんな》事を考へる様な境遇ぢやない、両親《ふたおや》はなく、一人ある兄も手頼《たより》にならず、又成らうともせぬ。謂はばこの世に孤独《ひとりぼつち》の自分は、傍目《わきめ》もふら
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