が詰《つま》らない!』と言つた様な失望が、漠然と胸に湧く。自省の念も起る。気を紛らさうと思つて二人の小供を呼んだ。智恵子の拵《こしら》へてくれた浴衣《ゆかた》をダラシなく着た梅ちやんと、裸体《はだか》に腹掛をあてた新坊が喜んで来た。
『何か話をして上げませう? 新坊さんは桃太郎が好き?』
『嫌。』と頭《かぶり》を振つて、『山サ行く。』
『先生、山サ連れてつて。』と梅ちやんも甘えかゝる。
『ホホヽヽ、何方《どつち》も山へ行きたいの? 山はこの次にね……。』
と言つてる所へ、入口に人の訪るる気勢《けはい》。智恵子は佶《きつ》と口を結んだ。俄かに動悸が強く打つ。

     (八)の五

 胸を轟《とどろ》かして待つた其人では無くて訪ねて来たのは信吾であつた。智恵子は何がなしにバツが悪く思つた。
 信吾は常に変らぬ態度《やうす》乍らも、何処か落着かぬ様で、室に入ると不図気がさした様に見巡《みまは》して坐つたが、今まで客のあつたとも見えぬ。
『吉野君が来なかつたですか?』
『否《いいえ》。』と対手の顔色を見る。
『来ない? 然うですか、何処へ行つたかなア。ハテナ、』と、信吾は是非逢はねばならぬ用でもある様に考へる。
『アノ、お一人でお出懸になつたんで御座いますか?』
『昌作《しやうさん》と二人です、今朝出たつ限《きり》まだ帰らないんですが、多分|貴女《あんた》ン許《とこ》かと思つて伺つたんです。』
 何故|此家《ここ》に居ると思つたか、此家に来ると其人が言つて出たのか、又、若し真《しん》に用があるのなら、午前中確かに居た筈の加藤へ行つて聞けば可い。言ひ方は様々あつたが、智恵子は膝に目を落して、唯、
『否《いいえ》。』と許り。
 危険《あぶな》い芸当を行《や》つてるといふ様な気がして、心が咎める。
『ハテナ。』と、信吾はまた大袈裟に考へ込む態《さま》を見せて、『実は何です、家《うち》に親類の者が来てゐて僕は今朝出られなかつたんですが、一寸今、用が出来たもんですから探しに来たんです。』
『何方《どちら》か他にお尋ねになつたんで御座いますか?』
『否《いいえ》、』と信吾は少許《すこし》困つて、『……真直に此方《こちら》へ。』
『此家《ここ》へ被来《いらつしや》るとでも被御《おつしや》つて[#「被御《おつしや》つて」はママ]、お出懸になられたんで御座いますか?』
『然うぢやないんですが、唯、多分然うかと思つたんで。』
『奈何《どう》してで御座いますか?』
『ハツハハ。』と、男は突然《いきなり》大きく笑つた。『違ひましたね。それぢや何処へ行つたかなア!』
 智恵子は黙つて了つた。
『盛岡でお逢ひになつたんですつてね、吉野に?』
『え。渡辺|様《さん》といふお友達の家に参りましたが、その方の兄さんとお親い方だとかで……アノ、些《ちよつ》とお目に懸つたんで御座います。』
『巧く言つてやがらア、畜生|奴《め》!』と、心の中《うち》。『甚※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《どんな》男です、貴女の見る所では?』
 智恵子は不快を感じて来た。
『奈何《どう》ツて、別に……。』
『僕は、那《ああ》した男が大好《だいすき》ですよ。僕の知つてる美術家|連中《なかま》も少くないが、吉野みたいな気持の好い、有望な男は居ませんよ……。』と、信吾は誇張した言方をして、女の顔色を見る。
『然うで御座いますか。』と言つた限《きり》、智恵子は真面目な顔をしてゐる。
 話は遂にはづまなかつた。智恵子には若しや恁《か》うしてる所へ其人が来はせぬかといふ心配がある。そして、其人に関する事を言ひ出されるのが、何がなしに侮辱されてる様な気がする。信吾は信吾で、妙に皮肉な考へ許り頭脳《あたま》に浮んだ。
 それでも、四十分許り対向《むかひあ》つてゐて、不図気が付いた様にして信吾はその家を辞した。
『畜生奴!』
 恁う先づ心に叫んだ。
 元が用があつて探しに来たのでも無いのだから、その儘家路を急いだ。母は二三日前からまた枕に就いた。父は留守。其処へ饒舌家《おしやべり》の叔母が小供達と共に泊りに来たのが、今朝も信吾は其叔母に捉《つか》まつて出懸けかねた。吉野は昌作を伴れて出懸けた。午後になつて父が帰ると、信吾は何となく吉野と智恵子の事が気に掛つた。それは一つは退屈だつた為でもある。
 モ一つには、その二人が自分の紹介も待たずして知己《ちかづき》になつたのが、訳もなく不愉快なのだ。秘《かく》して置いた物を他人《ひと》に勝手に見られた様な感じが、信吾の心を焦立せてゐる。
『今日は奈何して、那※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《ああ》冷淡だつたらう?』と、智恵子の事を考へ乍ら、信吾は強く杖《ステツキ》を揮つて、
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