に障つたよ。何といふのかな、那※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《あんな》具合で到頭埋もれて了ふのを。平凡の悲劇とでも言ふのかな……。』
『だつて君。』と信吾は委細呑込んだと言つた様な顔をして、『その人にだつて家庭《うち》の事情てな事が有《あら》アな。一年や二年中学の教師をした所で、画才が全然《すつかり》滅びるツて事も無からうさ。』
『それがよ、家庭の事情なんて事が縦頭《てんで》可《よ》くない。生活問題は誰にしろ有るさ。然し芸術上の才能は然《さ》うは行かない。其奴が君、戦つても見ないで初めツから生活に降参するなンて、意気地が無いやね。……とマア言つて見たんさ、我身に引較べてね。』
『ハハヽヽ。君にも似合はんことを言ふぢやないか。』とゴロリ横になる。
其処へ、庭に勢ひよき下駄の音がして、昌作が植込の中からヒヨクリと出て来た。今しも町から帰つて来たので。
『ヤア、お帰りになりましたな。』と吉野に声をかける。
『否《いや》、モ少し先に。今日も貴君は鮎釣でしたか?』
『否《いいえ》。』と無雑作に答へて縁側に腰を掛けた。『吉野さん、貴方、日向さんと同じ※[#「さんずい+氣」、第4水準2−79−6]車でしたらう?』
『え?』と静子が聞耳を立てる。
『然う、然う。』と、吉野は今迄忘れてゐたと言つた様に言つて、静子の方に向いた。『ソレ、過日《こなひだ》橋の上に貴女と二人立つてゐた方ですね。あの方と今日同じ※[#「さんずい+氣」、第4水準2−79−6]車に乗りましたよ。』
『アラ智恵子さんと。然うでしたか! よくお解りになりましたね。』と嫣乎《につこり》、何気なく言つた。
『否《いや》ソノ、何です、今話した渡辺の家《うち》で紹介されたんです。渡辺の妹君《シスタア》と親友なんださうで、偶然同じ家に泊つた訳なんです。』と、吉野は急《いそが》しく眼をパチつかせ乍ら、無意識に煙草に手を出す。
『オヤ然《さ》うでしたの!』
『然うかい!』と信吾も驚いて、『それは奇遇だつたな。実に不思議だ。』
『別段奇遇でも無からうがね。唯逢つただけよ。』と、吉野は顔にかゝる煙草の煙に大仰《おほぎやう》に眉を寄せる。
『昌作さんは何ですか、日向さんに逢つて来たの?』と信吾が横になつた儘で問うた。
『否《いや》。帰つて来た所を遠くから見ただけだ。』
『よツぽど遠くからね? ハヽヽ。』
昌作はムツとした顔をして、返事はせずに、吉野の顔色を覗《うかが》つた。
然うしてる所へ、母屋の方には賑かな女の話声。下女が前掛で手を拭きながらバタ/\駆けて来て、
『若旦那|様《さま》、お嬢様、板垣様の叔母|様《さま》が盛岡からお出《で》アンした。』
『アラ今日|被来《いらしつ》たの。明日かと思つたら。』と、静子は吉野に会釈して怡々《いそいそ》下女の後から出て行く。
『父の妹が泊懸《とまりがけ》に来たんだ。一寸行つて会つてくるよ。』
と信吾も立つた。昌作は何時の間にか居ない。
吉野は眉間《みけん》の皺を殊更深くして、眤《じつ》と植込の辺《あたり》に瞳を据ゑてゐた。
(八)の一
智恵子は渡辺の家に一泊して、渡辺の妹の久子といふのと翌一日《あくるついたち》大沢の温泉に着いたのであつた。その夕方までには、二十幾名の級友大方臨渓館といふ温泉宿の二階に、県下の各地方から集つた。
兎角女といふものは、学校にゐる時は如何に親くても、一度別れて了へば心ならずも疎《うと》くなり易い。それは各々《おのおの》の境遇が変つて了ふ為で、智恵子等のそれは、卒業してからも同じ職業に就いてるからこそ、同級会といふ様なものも出来るのだ。三年の月日を姉と呼び妹と呼んで一棟の寄宿舎に起臥《おきふし》を共にした間柄、校門を辞して散々《ちりぢり》に任地に就いてからの一年半の間《うち》に、身に心に変化のあつた人も多からうが、さて相共に顔を合せては、自《おのづ》から気が楽しかつた寄宿舎時代に帰つた。数限りなき追憶《おもひで》が口々に語られた。気軽な連中は、階下の客の迷惑も心づかず、その一人が弾くヴアイオリンの音に伴れてダンスを始めた。恁《か》くて此若い女達は翌《あくる》二日の夜更までは何も彼も忘れて楽みに酔うた。欠席したのは四人、その一人は死に、その一人は病み、他の二人は懐妊中とのことで。――結婚したのはこの外にも五六人あつた。
各々の任地の事情が、また、事細かに話し交された。語るべき友の乏しいといふ事、頭脳《あたま》の旧い校長の悪口、同じ師範出の男教員が案外不真面目な事、師範出以外の女教員の劣等な事、これらは大体に於て各々の意見が一致した。
中に一人、智恵子の村の加藤医師と遠縁の親籍だといふのがあつた。その女から、智恵子は清子に宛てた一封の手紙を托された。
その
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