釈」といふ書《ほん》を借りたことがあるさうだ。それを再《また》読みたいから俺に借りて来て呉れと言ふンですがね。』
『オヤ、何故御自分で被来《いらつしや》らないでせう?』
『だつて寝てるんだもの。』
『ぢやモウ、病床《とこ》に就いたの?』と低目に言つて、胡散臭《うさんくさ》い眼付をする。
『一昨日《をととひ》俺と鮎釣に行つて、夕立に会つたんですよ。それで以て山内は弱いから風邪を引いたんだ。』
『アラ昌作さん、山内|様《さん》は肺病だつてンぢや有りませんか?』
『肺病?』と正直に驚いた顔をしたが、『嘘だ!』
『嘘なもんですか。始終《しよつちゆう》那※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]妙な咳をしてゐたぢやありませんか。……加藤さんが然《そ》言つてるんですもの。』
『肺病だと?』
『え。』と気がさした様に声を落して、
『だけど私が言つたなんか言つちや不可《いや》よ。よ、昌作|様《さん》、貴方も伝染《うつ》らない様に用心なさいよ。』
『莫迦な! 山内は那※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]小い体をしてるもんだから、皆で色々《いろん》な事を言ふンだ。俺だつて咳はする――。』
『馬の様な咳を。ホホヽヽ。』と富江は笑つて、『誰がまた、那※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]一寸法師さんを一人前《ひとりまへ》の人|待遇《あつかひ》にするもんですか。』
そして取つて付けた様にホホヽヽと再《また》笑つた。
『だから不可《いけな》い。』と昌作は錆びた声に力を入れて、『体の大小によつて人を軽重するといふ法はない。真箇《ほんと》に俺は憤慨する。家《うち》の奴等も皆《みんな》然うだ。』
『然うでないのは日向のハイカラ様《さん》許《ばつか》りでせう?』
昌作は聞かぬ振をして、『英吉利《イギリス》の詩人にポープといふ人が有つた。その詩人は、佝僂《せむし》で跛足《ちんば》だつたさうだ。人物の大小は体に関らないサ。』と、三文雑誌ででも読んだらしい事を豪さうに喋る。
『大層力んで見せるのね。だけれど山内|様《さん》は別に大詩人でもないぢやありませんか!』
『それは別問題だ。……』と正直に塞《つま》つて、『それは然うと、今言つた書《ほん》を貸して下さい。』
『家《うち》に置いてあるの。』
『小使を遣つて取寄せて呉れるサ。』と頼む様な語調《てうし》。
『肺病患者なんかに!』と独言《ひとりご》つ様に言つて、
『アノね、昌作さん。』と可笑《をか》しさを怺《こら》へた様な眼付をする。『恁《か》う言つて下さいな、山内|様《さん》に。アノね、評釈なんか無くたつて解るぢやありませんかツて。』
『え? 何ですツて?』と昌作は真面目に腑に落ちぬ顔をする。
『ホホヽヽヽ。』と富江は一人高笑ひした。そして、『書《ほん》はね、後刻《あと》で誰かに届けさせますよ。』
一時間程経つて、昌作は、来た時の様にブラリと、帽子も冠らず、単衣の両袖を肩に捲り上げて、長い体を妙に気取つて、学校の門を出た。
そして川崎道の曲角まで来た時、三町|彼方《かなた》から、深張の橄欖色《オリイブいろ》の女傘《かさ》をさした、海老茶の袴を穿いた女が一人、歩いて来るのに目をつけた。『ハハア、帰つて来たナ。』と呟いて、足を淀《よど》めたが、ツイと横路へ入る。
三日前に画家の吉野と同じ※[#「さんずい+氣」、第4水準2−79−6]車に乗合せて、大沢温泉に開かれた同級会へ行つた智恵子は、今しも唯一人、町の入口まで帰つて来た。
(七)の三
小川家の離室《はなれ》には、画家の吉野と信吾とが相対してゐる。吉野は三十分許り前に盛岡から帰つて来た所で、上衣を脱ぎ、白綾の夏|直衣《ちよつき》の、その鈕《ボタン》まで脱《はづ》して、胡坐《あぐら》をかいた。
その土産らしい西洋菓子の函を開き、茶を注《つ》いで、静子も其処に坐つた。母屋の方では、キヤツ/\と小妹《いもうと》共の騒ぐのが聞える。
『だからね。』と吉野は其友渡辺の噂を続けた。
『僕は中学の画の教師なんかやるのが抑《そもそ》も愚だと言つて遣つたんだ。奴だつて学校にゐた時分は夢を見たものよ。尤も僕なんかより遙《ずつ》と常識的な男でね。静物の写生なんかに凝つたものだ。だが奴が級友《なかま》の間でも色彩《いろ》の使ひ方が上手でね、活きた色彩を出すんだ。何色彩《なにいろ》を使つても習慣《コンベンシヨン》を破つてるから新しいんだよ。何時かの展覧会に出した風景と静物なんか、黒人《くろうと》仲間ぢや評判が好かつたんだよ。其奴《そいつ》が君、遊びに来た中学生に三宅の水彩画の手本を推薦してるんだからね。……僕は悲しかつたよ。否《いや》悲しいといふよりは癪
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