つた。その清子の目からは亦《また》信吾の智恵子に対する挙動《しうち》が、全くの無意味には見えなかつた。そして富江の阿婆摺れた調子、殊にも信吾に対する忸々《なれなれ》しい態度は、日頃富江を心に軽《かろ》んじてゐる智恵子をして多少の不快を感ぜしめぬ訳にいかなかつた。
 九時過ぎて済んだ、茶が出、菓子が出る。残りなく白粉の塗られた顔を、一同《みんな》は互ひに笑つた。消さずに帰る事と、誰やらが言出したが、智恵子清子静子の三人は何時の間にか洗つて来た。富江が不平を言出して、三人に更《あらた》めて付けようと騒いだが、それは信吾が宥《なだ》めた。そして富江は遂に消さなかつた。森川は上衣の鈕をかけて、乾いた紛※[#「巾+兌」、228−上−9]《ハンケチ》で顔を拭いた。宛然《さながら》厚化粧した様になつて、黒い歯の間の一枚の入歯が、殊更らしく光つた。妖怪《おばけ》の様だと言つて一同《みんな》がまた笑つた。
 軈てドヤ/\と帰路《かへりぢ》についた。信吾兄妹も鶴飼橋まで送ると言つて一同と一緒に戸外《そと》に出た。雲一つなき天《そら》に片割月《かたわれづき》が傾いて、静かにシツトリとした夜気が、相応に疲れてゐる各々の頭脳《あたま》に、水の如く流れ込んだ。

     (四)の七

 淡い夜霧が田畑の上に動くともなく流れて、月光《つきかげ》が柔かに湿《うるほ》うてゐる。夏もまだ深からぬ夜の甘さが、草木の魂を蕩《とろ》かして、天地《あめつち》は限りなき静寂《しづけさ》の夢を罩《こ》めた。見知らぬ郷《くに》の音信《おとづれ》の様に、北上川の水瀬《みなせ》の音が、そのシツトリとした空気を顫はせる。
 男も女も、我知らず深い呼吸をした。各々の疲れた頭脳《あたま》は、今までの華やかな明るい室の中の態《さま》と、この夜の村の静寂《しづけさ》の間の関係を、一寸心に見出しかねる…………と、眼の前に加留多の札がチラつく。歌の句が断々《きれぎれ》に、混雑《こんがらか》つて、唆《そそ》るやうに耳の底に甦る。『那《あ》の時――』と何やら思出される。それが余りに近い記憶なので、却つて全体《みな》まで思出されずに消えて了ふ。四辺《あたり》は静かだ。湿つた土に擦れる下駄の音が、取留めもなく縺《もつ》れて、疲れた頭脳が直ぐ朦々《もやもや》となる。霎時《しばし》は皆無言で足を運んだ。
 田の中を逶《うね》つた路が細い。十人
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