の宝徳寺、一つは下田の喜雲寺、何れも朝から村中の善男善女を其門に集めた。静子も、母お柳の代理で、養祖母のお政や小供らと共に、午前のうちに参詣に出た。
 その帰路《かへり》である。静子は小妹《いもうと》二人を伴れて、宝徳寺路の入口の智恵子の宿を訪ねた。智恵子は、何か気の退《ひ》ける様子で迎へる。
『怎うなすつたの、智恵子さん? 風邪《おかぜ》でもお引きなすつて?』
『否《いいえ》、今日は何とも無いんですけれど、昨晩恰度お腹が少し変だつた所でしたから……折角お使者《つかひ》を下すつたのに、済みませんでしたわねえ。』
『心配したわ、私。』と、静子は真面目に言つた。『貴女が被来《いらつしや》らないもんだから、詰らなかつたの加留多は。』
『アラ其※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《そんな》事は有りませんわ。大勢|被行《いらし》つたでせう、神山|様《さん》も?』
『けどもねえ智恵子様、怎うしたんだか些《ちつ》とも気が逸《はず》まなかつてよ。騒いだのは富江さん許り……可厭《いやあ》ねアノ人は!』
『……那※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《あんな》人だと思つてれヤ可《い》いわ。』
 静子は、その富江が山内の艶書を昌作に呉れた事を話さうかと思つたが、何故か二人の間が打解けてゐない様な気がして、止めて了つた。三十分許り経つて暇乞をした。
 二人は相談した様に、吉野のことは露程も口に出さなかつた。
 静子が家《うち》へ帰ると、信吾は待ち構へてゐたといふ風に自分の室へ呼んで、そして、何か怒つてる様な打切棒《ぶつきらぼう》な語調《てうし》で、智恵子の事を訊いた。
 静子は有《あり》の儘に答へた。
『然うか!』
と言つた信吾の態度《やうす》は、宛然《さながら》、其※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]事は聞いても聞かなくても可いと言つた様であつたが、静子は征矢《そや》の如く兄の心を感じた。そして、何といふ事なしに、
『兄様《にいさん》に宜敷と言つてよ、智恵子|様《さん》が!』
と言つて見た。智恵子は何とも言つたのではないが。
『然うか!』と、信吾は再《また》卒気《そつけ》なく答へた。
 そして、昼飯が済むと、フラリと一人出て、町へ行つた。
 信吾が出かけて間もなくで
前へ 次へ
全109ページ中89ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
石川 啄木 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング