を辷《すべ》つて[#「肩を辷《すべ》つて」は底本では「肩《すべ》を辷つて」]髪に留つた。パツと青く光る。
『ア、』と吉野は我知らず声を立てた。智恵子は顔を向ける。其|機会《ひやうし》に螢は飛んだ。
『今螢が留つたんです、貴女の髪に。』
『マア!』と言つて、智恵子は暗《やみ》ながら颯《さつ》と顔を染めた。今まで男に凝視《みつめ》られてゐたと思つたので。
で、二人の目は期せずして其一疋の螢の後を追うた。フラ/\と頭の上に漂うて、風を喰つた様に逆《さかさ》まに川原に逃げる。
『アレ、先生の方から!』
と、小供の一人が其螢を見付けたらしく、下から叫んだ。
『アレ! アレ!』
『先生! 先生!』
と女児《こども》らは騒ぐ、螢はツイと逸《そ》れて水の上を横様《よこさま》に。
『先生! 下へ来て取つて下《くな》ンせ!』と一人が甘えて呼ぶ。
『今行きますよ。』と智恵子は答へた。下からは口を揃へて同じ事を言ふ。
『行つて見ませう!』恁《か》う吉野が言つて欄干から離れた。
『ハ、参りませう。』
『御迷惑ぢやないんですか貴女は?』
『否《いいえ》。』と答へる声に力が籠つた。『貴方こそ?』
(九)の四
昼は足を※[#「燬」の「臼」に代えて「白」、264−上−8]《や》く川原の石も、夜露を吸つて心地よく冷えた。処々に咲き乱れた月見草が、暗《やみ》に仄かに匂うてゐる。その間を縫うて、二人はそこはかとなく逍遙《さまよ》うた。
『その感想《かんじ》――孤独の感想《かんじ》がですね。』と、吉野は平生《いつも》の興奮した語調《てうし》で語り続けてゐた。『大都会の中央の轟然たる百万の物音の中にゐて感ずる時と、恁うした静かな村で感ずる時と、それア違ひますよ。矢張《やつぱり》何ですかね、新しい文明はまだ行き渡つてゐないんで、一歩都会を離れると、世界にはまだ/\ロマンチツクが残つてるんですね。畢竟《つまり》夢が残つてるんですね。』
『ハ!』
『夢を見る暇もない都会の烈しい戦争の中で、間断《ひつきり》なしの圧迫と刺戟を享けながら、切迫塞《せつぱつま》つた孤独の感を抱いてる時ほど、自分の存在の意識の強い事はありませんね。それア苦しいですよ。苦しいけれど、矢張新しい生活は其烈しい戦争の中で営まれるんですね。……が、です、田舎へ来ると違ひます。田舎にはロマンチツクが残つてます。夢が残つてます、叙情
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