く星を鏤《ちりば》めた其|隅々《くまぐま》には、暗《やみ》に仄めく月見草が、しと/\と露を帯びて、一団《ひとかたまり》づゝ処々に咲き乱れてゐる。
 女児等《こどもら》は直ぐ川原に下りて、キヤツ/\と騒ぎ乍ら流れる螢を追つてゐる。智恵子は何がなしに、唯何がなしに橋の上にゐたかつた。其※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《そんな》事は無い! と否《いな》み乍らも、何がなしに、若しや、若しや、といふ朦乎《ぼんやり》した期待《のぞみ》が、その通路《とほりみち》を去らしめなかつた。
 今日一日の種々《いろいろ》な心境《ここち》と違つた、或る別な心境が、新しく智恵子の心を領《し》めた。そこはかとなき若い悲哀《かなしみ》――手頼《たより》なさが、消えみ明るみする螢の光と共に胸に往来して、他《ひと》にとも自分にとも解らぬ、一種の同情が、自《おのづ》と呼吸《いき》を深くした。
 幸福とは何か? 這※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《こんな》考へが浮んだ。神の愛にすがるが第一だ、と自分に答へて見た。不図智恵子は、今日一日全く神に背いて暮した様な気がして来た。『神に遁れる、といふ様な事も有得るですね。』と、何時だつたか信吾の謂つた言葉も思出された。智恵子の若い悲哀《かなしみ》は深くなつた。遂に讃美歌を歌ひ出した。
『……やーみ路《ぢ》をー、てーらせりー、かーみはーあーいーなりー。』
「愛」といふ語が何がなく懐しかつた。そして又繰り返した。『……あーいーなりー……。』
 下駄の音が橋に伝はつた。智恵子は鋭敏にそれを感じて、ツと振返つた。が、待構へてでも居た様に、不思議に動悸もしない。其人とは虫が知らしたのだが……。

     (九)の三

『日向|様《さん》ぢやありませんか?』
 恁《か》う言つて、吉野は近いて来た。
『マア、貴方で御座いましたか! 昨日《さくじつ》は失礼致しました。』
『僕こそ。』と言ひながら、男は少許《すこし》離れて鋼線《はりがね》の欄干に靠《もた》れた。『意外な所で再《また》お目にかかりましたね。貴女《あなた》お一人ですか?』
『否《いいえ》、小供達に強請《せが》まれて螢狩に。貴方も御散歩?』
『え。少し酒を飲まされたもんですから、密乎《こつそり》逃げ出して来たんです。実に好い晩で
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