、ブラリ/\と辿る心境《ここち》は、渠《かれ》が長く/\忘れてゐた事であつた。北上川の水音は漸々《だんだん》近くなつた。足は何時しか、町へ行く路を進んでゐた。
 轟然たる物の音響《ひびき》の中、頭を圧する幾層の大廈《たいか》に挾まれた東京の大路を、苛々《いらいら》した心地《ここち》で人なだれに交つて歩いた事、両国近い河岸《かし》の割烹店《レストーラント》の窓から、目の下を飛ぶ電車、人車、駈足をしてる様な急《いそが》しい人々、さては、濁つた大川を上り下りの川蒸気、川の向岸《むかう》に立列んだ、強い色彩《いろ》の種々《いろいろ》の建物、などを眺めて、取留《とりとめ》もない、切迫塞《せつぱつま》つた苦痛《くるしみ》に襲《おそは》れてゐた事などが、怎《ど》うやら遙《ずつ》と昔の事、否《いや》、他人の事の様に思はれる。
 吉野は、今日町に行つて加藤で御馳走になつた事までも、既《も》う五六日も十日も前の事の様に思はれた。自分が余程《よつぽど》以前から此村にゐる様な気持で、先刻《さつき》逢つて酒を強ひられた許りの村の有志――その中には清子の父なる老村長もゐた――の顔も、可也古くからの親みがある様に覚えた。
 いつしか高畠《たかばたけ》の杜《もり》を過ぎて、鶴飼橋の支柱が、夜目にそれと見える様になつた。急に高まつた川瀬の音が、静かな、そして平かな心の底に、妙にシンミリした響きを伝へる。
 と、その川瀬の音に交つて、小供らの騒ぐ声が聞え出した。
 橋の袂まで来た。不図《ふと》小供らの声に縺《もつ》れて、低い歌が耳に入る。
『……かーみはーあーいーなりー。』
 仄白い人の姿が、朧気《おぼろげ》に橋の上に立つてゐる。

     (九)の二

 橋の上の仄白い人影、それは智恵子であつた。
 信吾の帰つた後の智恵子は、妙に落胆《がつかり》して気が沈んだ。今日一日の己《おの》が心が我ながら怪まれる。
『奈何《どう》したといふのだらう? 私はアノ人を、思つてる…………恋してるのか知ら!』
『否《いな》!』と強く自ら答へて見た。自分は仮にも其※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《そんな》事を考へる様な境遇ぢやない、両親《ふたおや》はなく、一人ある兄も手頼《たより》にならず、又成らうともせぬ。謂はばこの世に孤独《ひとりぼつち》の自分は、傍目《わきめ》もふら
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