は思つた。
『は?』と言つて、安藤は目の遣り場に困る程|周章《まごつ》いた。
『先生ア眞箇《ほんとう》に千早先生の辭表を受け取つたすか?』
『は。……いや、それでごあんすでば。今も申上げようかと思ひあんしたども、お話中に容喙《くちだし》するのも惡いと思つて、默つてあんしたが、先刻その、號鐘《かね》が鳴つて今始業式が始まるといふ時、お出しになりあんしてなす。ハ、これでごあんす。』と、硯箱の下から其解職願を出して、『何れ後刻《あと》で緩くりお話しようと思つてあんしたつたども、今迄その暇がなくて一寸此處にお預りして置いた譯でごあんす。何しろ思ひ懸けないことでごあんしてなす。ハ。』
『その書式を教へたのは誰だ?』と健は心の中で嘲笑《あざわら》つた。
『然うすか、解職願お出しエんしたのすか? 俺ア少しも知らなごあんしたオなす。』と、秋野は初めて知つたと言ふ風に言つた。『千早先生も又、甚※[#「麻かんむり/「公」の「八」の右を取る」、第4水準2−94−57]《どんな》御事情だかも知れねえども、今急にお罷めアねえくとも宜《よ》うごあんべアすか?』
『安藤先生、』と東川は呼んだ。『そせば先生も、その辭
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