帽子も冠らず――渠は帽子も有つてゐなかつた。――亭乎《すらり》とした體を眞直にして玄關から上つて行くと、早出の生徒は、毎朝、控所の彼方此方から驅けて來て、恭しく渠を迎へる。中には態々渠に叩頭《おじぎ》をする許《ばつか》りに、其處に待つてゐるのもあつた。その朝は殊に其數が多かつた。平生の三倍も四倍も……遲刻勝な成績の惡い兒の顏さへ其中に交つてゐた。健は直ぐ、其等の心々に溢れてゐる進級の喜悦を想うた。そして、何がなく心が曇つた。
渠はその朝解職願を懷にしてゐた。
職員室には、十人許りの男女――何れも穢ない扮裝《みなり》をした百姓達が、物に怖《おび》えた樣にキョロ/\してゐる尋常科の新入生を、一人づゝ伴れて來てゐた。職員四人分の卓や椅子、書類入の戸棚などを並べて、さらでだに狹くなつてゐる室は、其等の人數に埋められて、身動きも出來ぬ程である。これも今來た許りと見える女教師の並木孝子は、一人で其人數を引受けて少し周章《まごつ》いたといふ態《ふう》で、腰も掛けずに何やら急がしく卓の上で帳簿を繰つてゐた。
そして、健が入つて來たのを見ると、
『あ、先生!』と言つて、ホッと安心した樣な顏をした。
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