軈て健は二階の教室に上つて行く。すると、校長の妻は密乎《こつそり》と其後を跟《つ》けて行つて、教室の外から我が子の叱られてゐるのを立ち聞きする。意氣地なしの校長は校長で、これも我が子の泣いてゐる顏を思ひ浮べながら、明日の教案を書く……
 健が殊更校長の子に嚴しく當るのは、其兒が人一倍|惡戲《わるさ》に長《た》て、横着で、時にはその先生が危ぶまれる樣な事まで爲出かす爲めには違ひないが、一つは渠の性質に、其※[#「麻かんむり/「公」の「八」の右を取る」、第4水準2−94−57]事をして或る感情の滿足を求めると言つた樣な點があるのと、又、然うする方が他の生徒を取締る上に都合の好い爲めでもあつた。渠が忠一を虐《いじ》めることが嚴しければ嚴しい程、他の生徒は渠を偉い教師の樣に思つた。
 そして、女教師の孝子にも、健の其※[#「麻かんむり/「公」の「八」の右を取る」、第4水準2−94−57]行動が何がなしに快く思はれた。時には孝子自身も、人のゐない處へ忠一を呼んで、手嚴しく譴《たしな》めてやることがある。それは孝子にとつても或る滿足であつた。
 孝子は半年前に此學校に轉任して來てから、日一日と經つうちに、何處の學校にもない異樣な現象を發見した。それは校長と健との妙な對照で、健は自分より四圓も月給の安い一代用教員に過ぎないが、生徒の服してゐることから言へば、健が校長の樣で、校長の安藤は女教師の自分よりも生徒に侮られてゐた。孝子は師範女子部の寄宿舍を出てから二年とは經たず、一生を教育に獻げようとは思はぬまでも、授業にも讀書にもまだ相應に興味を有つてる頃ではあり、何處か氣性の確固《しつかり》した、判斷力の勝つた女なので、日頃校長の無能が女ながらも齒痒い位。殊にも、その妻のだらしの無いのが見るも厭で、毎日顏を合してゐながら、碌すつぽ口を利かぬことさへ珍しくない。そして孝子には、萬事に生々とした健の烈しい氣性――その氣性の輝いてゐる、笑ふ時は十七八の少年の樣に無邪氣に、眞摯《まじめ》な時は二十六七にも、もつと上にも見える渠の眼、(それを孝子は、寫眞版などで見た奈勃翁《ナポレオン》の眼に肖たと思つてゐた。)――その眼が此學校の精神ででもあるかのやうに見えた。健の眼が右に動けば、何百の生徒の心が右に行く、健の眼が左に動けば、何百の生徒の心が左に行く、と孝子は信じてゐた。そして孝子自身の心も、何時しか健の眼に隨つて動く樣になつてゐる事は、氣が附かずにゐた。
 齡から云へば、孝子は二十三で、健の方が一歳下の弟である。が、健は何かの事情で早く結婚したので、その頃もう小兒も有つた。そして其家が時として其日の糧にも差支へる程貧しい事は、村中知らぬ者もなく、健自身も別段隱す風も見せなかつた。或る日、健は朝から浮かぬ顏をして、十分の休み毎に欠伸《あくび》許りしてゐた。
『奈何なさいましたの、千早先生、今日はお顏色が良くないぢやありませんか?』
と孝子は何かの機會に訊いた。健は出かゝかつた生欠伸を噛んで、
『何有《なあに》。』と言つて笑つた。そして、
『今日は煙草が切れたもんですからね。』
 孝子は何とも言ふことが出來なかつた。健が平生人に魂消られる程の喫煙家で、職員室に入つて來ると、甚※[#「麻かんむり/「公」の「八」の右を取る」、第4水準2−94−57]事があらうと先づ煙管を取り上げる男であることは、孝子もよく知つてゐた。卓隣りの秋野は其煙草入を出して健に薦めたが、渠は其日一日|喫《の》まぬ積りだつたと見えて、煙管も持つて來てゐなかつた。そして、秋野の煙草を借りて、美味さうに二三服續け樣に喫んだ。孝子はそれを見てゐるのが、何がなしに辛かつた。宿へ歸つてからまで其事を思出して、何か都合の好い名儀をつけて健に金を遣る途はあるまいかと考へた事があつた。又去年の一夏、健が到頭古袷を着て過した事、それで左程暑くも感じなかつたといふ事なども、渠自身の口から聞いてゐたが、村の噂はそれだけではなかつた。其夏、毎晩夜遲くなると、健の家――或る百姓家を半分|劃《しき》つて借りてゐた――では、障子を開放して、居たたまらぬ位杉の葉を燻しては、中で頻りに團扇で煽いてゐた。それは多分蚊帳が無いので、然うして蚊を逐出してから寢たのだらうといふ事であつた。其※[#「麻かんむり/「公」の「八」の右を取る」、第4水準2−94−57]に苦しい生活をしてゐて、渠には些とも心を痛めてゐる風がない。朝から晩まで、眞に朝から晩まで、子供等を對手に怡々《いそ/\》として暮らしてゐる。孝子が初めて此學校に來た秋の頃は、毎朝|昧爽《よあけ》から朝飯時まで、自宅に近所の子供等を集めて「朝讀」といふのを遣つてゐた。朝な/\、黎明の光が漸く障子に仄めいた許りの頃、早く行くのを競つてゐる子供等――主に高等科の――が戸外から
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