だよ。』
『ハイ。そでごあんすどもなす、先生樣、兄弟何方も一年生だら、可笑《をかし》ごあんすべアすか?』と、老女は鐵漿《おはぐろ》の落ちた齒を見せて、テレ隱しに追從笑ひをした。
『構うもんか。弟が内務大臣をして兄は田舍の郡長をしてゐた人さへある。一緒な位何でもないさ。』
『ハイ。』
『婆さんの理窟で行くと、兄が死ねば弟も死なゝけれアならなくなる。俺の姉は去年死んだけれども俺は恁して生きてゐる。然うだ。過日《こなひだ》死んだ馬喰《ばくらふ》さんは、婆さんの同胞《きようだい》だつていふぢやないか?』
『アッハヽヽ。』と居並ぶ百姓達は皆笑つた。
『婆さんだつて其通りチャンと生きてゐる。ハヽヽ。兎に角弟の方も今年から寄越すさ。明日《あす》と明後日は休みで、四日から授業が始まる。その時|此兒《これ》と一緒に。』
『ハイ。』
『眞箇《ほんとう》だよ。寄越さなかつたら俺が迎ひに行くぞ。』
 さう言ひながら立ち上つて、健は孝子の隣の卓に行つた。
『お手傳ひしませう。』
『濟みませんけれど、それでは何卒《どうぞ》。』
『あ、もう八時になりますね。』と、渠は孝子の頭の上に掛つてゐる時計を見上げた目を移して、障子一重で隔てた宿直室を、顎で指した。『まだ顏を出さないんですか?』
 孝子は笑つて點頭《うなづ》いた。
 その宿直室には、校長の安藤が家族――妻と二人の子供――と共に住んでゐる。朝飯の準備が今|漸々《よう/\》出來たところと見えて、茶碗や皿を食卓に竝べる音が聞える。無精者の細君は何やら呟々《ぶつ/\》子供を叱つてゐた。
 新入生の一人々々を、學齡兒童調書に突合して、健はそれを學籍簿に記入し、孝子は新しく出席簿を拵へる。何本を買はねばならぬかとか、石盤は石石盤が可いか紙石盤が可いかとか、塗板ももたせねばならぬかとか、父兄は一人々々同じ樣な事を繰返して訊く。孝子は一々それに答へる。すると今度は健の前に叩頭《おじぎ》をして、子供の平生の行状やら癖やら、體の弱い事などを述べて、何分よろしくと頼む。新入生は後から/\と續いて狹い職員室に溢れた。
 忠一といふ、今度尋常科の三年に進んだ校長の長男が、用もないのに怖々《おづ/\》しながら入つて來て、甘える樣な姿態《しな》をして健の卓に倚掛つた。
『彼方《あつち》へ行け、彼方へ。』と、健は烈しい調子で、隣室にも聞える樣に叱つた。
『は。』と、言つて、猾《ずる》さうな、臆病らしい眼附で健の顏を見ながら、忠一は徐々《そろ/\》と後退《あとしざ》りに出て行つた。爲樣のない横着な兒で、今迄健の受持の二年級であつたが、外の教師も生徒等も、校長の子といふのでそれとなく遠慮してゐる。健はそれを、人一倍嚴しく叱る。五十分の授業の間を隅に立たして置くなどは珍しくない事で、三日に一度は、罰として放課後の教室の掃除當番を吩附《いひつ》ける。其※[#「麻かんむり/「公」の「八」の右を取る」、第4水準2−94−57]時は、無精者の母親がよく健の前へ來て、抱いてゐる梅ちやんといふ兒に胸を披《はだ》けて大きい乳房を含ませながら、
『千早先生、家の忠一は今日も何か惡い事しあんしたべすか?』などゝ言ふことがある。
『は。忠一さんは日増しに惡くなる樣ですね。今日も權太といふ子供が新しく買つて來た墨を、自分の机の中に隱して知らない振りしてゐたんですよ。』
『こら、彼方へ行け。』と、校長は聞きかねて細君を叱る。
『それだつてなす、毎日惡い事許りして千早先生に御迷惑かける樣なんだハンテ、よくお聞き申して置いて、後で私もよく吩附《いひつ》けて置くべと思つてす。』
 健は平然《けろり》として卓隣《つくゑどな》りの秋野といふ老教師と話を始める。校長の妻は、まだ何か言ひたげにして、上吊つた眉をピリ/\させながら其處に立つてゐる。然うしてるところへ、掃除が出來たと言つて、掃除監督の生徒が通知に來る。
『黒板も綺麗に拭いたか?』
『ハイ。』
『先生に見られても、少しも小言《こごと》を言はれる點《ところ》が無い樣に出來たか?』
『ハイ。』
『若し粗末だつたら明日また爲直させるぞ。』
『ハイ。立派に出來ました。』
『好し。』と言つて、健は莞爾《につこり》して見せる。『それでは一同《みんな》歸しても可い。お前も歸れ。それからな、今先生が行くから忠一だけは教室に殘つて居れと言へ。』
『ハイ。』と、生徒の方も嬉しさうに莞爾《につこり》して、活溌に一禮して出て行く。健の恁※[#「麻かんむり/「公」の「八」の右を取る」、第4水準2−94−57]|訓導《しつけ》方は、尋常二年には餘りに嚴し過ぎると他の教師は思つてゐた。然しその爲に健の受持の組は、他級の生徒から羨まれる程規律がよく、少し物の解つた高等科の生徒などは、何彼につけて尋常二年に笑はれぬ樣にと心懸けてゐる程であつた。
 
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