、猾《ずる》さうな、臆病らしい眼附で健の顏を見ながら、忠一は徐々《そろ/\》と後退《あとしざ》りに出て行つた。爲樣のない横着な兒で、今迄健の受持の二年級であつたが、外の教師も生徒等も、校長の子といふのでそれとなく遠慮してゐる。健はそれを、人一倍嚴しく叱る。五十分の授業の間を隅に立たして置くなどは珍しくない事で、三日に一度は、罰として放課後の教室の掃除當番を吩附《いひつ》ける。其※[#「麻かんむり/「公」の「八」の右を取る」、第4水準2−94−57]時は、無精者の母親がよく健の前へ來て、抱いてゐる梅ちやんといふ兒に胸を披《はだ》けて大きい乳房を含ませながら、
『千早先生、家の忠一は今日も何か惡い事しあんしたべすか?』などゝ言ふことがある。
『は。忠一さんは日増しに惡くなる樣ですね。今日も權太といふ子供が新しく買つて來た墨を、自分の机の中に隱して知らない振りしてゐたんですよ。』
『こら、彼方へ行け。』と、校長は聞きかねて細君を叱る。
『それだつてなす、毎日惡い事許りして千早先生に御迷惑かける樣なんだハンテ、よくお聞き申して置いて、後で私もよく吩附《いひつ》けて置くべと思つてす。』
健は平然《けろり》として卓隣《つくゑどな》りの秋野といふ老教師と話を始める。校長の妻は、まだ何か言ひたげにして、上吊つた眉をピリ/\させながら其處に立つてゐる。然うしてるところへ、掃除が出來たと言つて、掃除監督の生徒が通知に來る。
『黒板も綺麗に拭いたか?』
『ハイ。』
『先生に見られても、少しも小言《こごと》を言はれる點《ところ》が無い樣に出來たか?』
『ハイ。』
『若し粗末だつたら明日また爲直させるぞ。』
『ハイ。立派に出來ました。』
『好し。』と言つて、健は莞爾《につこり》して見せる。『それでは一同《みんな》歸しても可い。お前も歸れ。それからな、今先生が行くから忠一だけは教室に殘つて居れと言へ。』
『ハイ。』と、生徒の方も嬉しさうに莞爾《につこり》して、活溌に一禮して出て行く。健の恁※[#「麻かんむり/「公」の「八」の右を取る」、第4水準2−94−57]|訓導《しつけ》方は、尋常二年には餘りに嚴し過ぎると他の教師は思つてゐた。然しその爲に健の受持の組は、他級の生徒から羨まれる程規律がよく、少し物の解つた高等科の生徒などは、何彼につけて尋常二年に笑はれぬ樣にと心懸けてゐる程であつた。
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