。』
と高等科の生徒の一人が、妙な声色を使つて言つた。
『叱《し》ツ。』
と秋野が制した。潜笑《しのびわら》ひの声は漣《さゞなみ》の様に伝はつた。そして新しい密語《ひそめき》が其に交《まじ》つた。
 それは恰度今の並木孝子の前の女教師が他村へ転任した時――去年の十月であつた。――安藤は告別の辞《ことば》の中で「三年一万九百日」と誤つて言つた。その女教師は三年の間この学校にゐたつたのだ。それ以来|年長《としかさ》の生徒は何時もこの事を言つては、校長を軽蔑する種にしてゐる。恰度この時、健もその事を思出してゐたので、も少しで渠も笑ひを洩らすところであつた。
 密語《ひそめき》の声は漸々《だんだん》高まつた。中には声に出して何やら笑ふのもある。と、孝子は草履の音を忍ばせて健の傍《かたはら》に寄つて来た。
『先生が前の方へ被入《いらつしや》ると宜うござんす。』
『然うですね。』と渠も囁いた。
 そして静かに前の方へ出て、階段の最も低い段の端の方へ立つた。場内はまた水を打つた様に※[#「門<嗅のつくり」、323−上−10]乎《ひつそり》とした。
 不図渠は、諸有《あらゆる》生徒の目が、諄々《くどく
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