つても取戻すことは厭です。内輪だらうが外輪だらうが、私は其※[#「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2−94−57]《そんな》事は考へません。』
然う言つた健の顔は、もう例《いつも》の平然《けろり》とした態《さま》に帰つてゐて、此上いくら言つたとて動きさうにない。言ひ出しては後へ退《ひ》かぬ健の気性は、東川もよく知つてゐた。
東川は突然《いきなり》椅子を捻向けた。
『安藤先生。』
その声は、今にも喰つて掛るかと許り烈しかつた。嚇《おど》すナ、と健は思つた。
『ハ?』と言つて、安藤は目の遣場《やりば》に困る程|周章《まごつ》いた。
『先生ア真箇《ほんたう》に千早先生の辞表を受取つたすか?』
『ハ。……いや、それでごあんすでは。今も申上げようかと思ひあんしたども、お話中に容喙《くちだし》するのも悪いと思つて、黙つてあんしたが、先刻《さつき》その、号鐘《かね》が鳴つて今始業式が始まるといふ時、お出しになりあんしてなす。ハ、これでごあんす。』と、硯箱の下から其解職願を出して、『何れ後刻《あと》で緩《ゆつく》りお話しようと思つてあんしたつたども、今迄その暇がなくて一寸此処にお預りして置いた訳でごあんす。何しろ思懸けないことでごあんしてなす。ハ。』
「その書式を教へたのは誰だ?」と健は心の中で嘲笑《あざわら》つた。
『然《さ》うすか、解職願お出しエんしたのすか? 俺ア少しも知らなごあんしたオなす。』と、秋野は初めて知つたと言ふ態《ふう》に言つた。『千早先生も又、甚※[#「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2−94−57]《どんな》御事情だかも知れねえども、今急にお罷めアねえくとも宜うごあんすべアすか?』
『安藤先生、』と東川は呼んだ。『そせば先生も、その辞表を一旦お戻しやる積りだつたのだなす?』
『ハ、然うでごあんす。何《いづ》れ後刻《あと》でお話しようと思つて、受取つた訳でアごあんせん、一寸お預りして置いただけでごあんす。』
『お戻しやれ、そだら。』と、東川は命令する様な調子で言つた。『お戻しやれ、お聞きやつた様な訳で、今それを出されでア困りあんすでば。』
『ハ。奈何《どう》せ私も然う思つてだのでごあんすアハンテ、お戻しすあんす。』と、顔を曇らして言つて、頬を凹《へこ》ませてヂウ/\する煙管を強く吸つた。戻すも具合悪く、戻さぬも具
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