つ》と『乱れ髪』を出して読んだりした時代の事や、――すべて慕《なつ》かしい過去の追想の多くは、皆この中津河畔の美しい市《まち》を舞台に取つて居る。盛岡は実に自分の第二の故郷なんだ。『美しい追憶の都』なんだ。
 十八歳の春、一先づこの第二の故郷を退いて、第一の故郷に帰つた。そして十幾ヶ月の間閑雲野鶴を友として暮したが、五年以前の秋、思立つて都門の客となり、さる高名な歴史家の書生となつた。翌年は文部省の検定試験を受けて、歴史科中等教員の免状を貰ふた。唯茲に一つ残念なのは、東洋のギボンを以て自ら任じて居た自分であるのに、試験の成績の、怪しい哉、左程上の部でなかつた事である。今は茨城県第○中学の助教諭、両親と小妹《せうまい》とをば、昨年の暮任地に呼び寄せて、余裕もない代り、別に窮迫もせぬ家庭を作つた。
 今年の夏は、校長から常陸《ひたち》郷土史の材料蒐集を嘱託せられて、一箇月半の楽しい休暇を全く其為めに送つたので、今九月の下旬、特別を以て三週間の賜暇を許され、展墓と親戚の廻訪と、外に北上河畔に於ける厨川柵《くりやがはのさく》を中心とした安倍氏勃興の史料について、少しく実地踏査を要する事があつて、五年振に此盛岡には帰つて来たのである。新山堂と呼ばるる稲荷神社の直《すぐ》背後《うしろ》の、母とは二歳《ふたつ》違ひの姉なる伯母の家に車の轅《ながえ》を下させて、出迎へた、五年前に比して別に老の見えぬ伯母に、『マア、浩《かう》さんの大きくなつた事!』と云はれて、新調の背広姿を見上げ見下しされたのは、実に一昨日《をとつひ》の秋風すずろに蒼古の市に吹き渡る穏やかな黄昏時《たそがれどき》であつた。


 遠く岩手、姫神、南昌《なんしやう》、早池峰《はやちね》の四峯を繞らして、近くは、月に名のある鑢山《たたらやま》、黄牛《あめうし》の背に似た岩山、杉の木立の色鮮かな愛宕山を控へ、河鹿鳴くなる中津川の浅瀬に跨《またが》り、水音|緩《ゆる》き北上の流に臨み、貞任《さだたう》の昔忍ばるる夕顔瀬橋、青銅の擬宝珠の古色|滴《したた》る許りなる上《かみ》中《なか》の二橋、杉土堤《すぎどて》の夕暮紅の如き明治橋の眺めもよく、若しそれ市の中央に巍然《ぎぜん》として立つ不来方城に登つて瞰下《みおろ》せば、高き低き茅葺《ちがや》柾葺《まさがや》の屋根々々が、茂れる樹々の葉蔭に立ち並んで見える此盛岡は、実に誰が見ても美しい日本の都会の一つには洩れぬ。誰やらが初めて此市に遊んで、『杜陵《とりよう》は東北の京都なり。』と云つた事があるさうな。『東北の京都』と近代的な言葉で云へば余り感心しないが、自分は『みちのくの平安城』と風雅な呼方をするのを好む。
 この美しい盛岡の、最も自分の気に入つて見える時は、一日の中では夜、天候では雨、四季の中では秋である。この三《みつ》を綜合すると、雨の降る秋の夜[#「雨の降る秋の夜」に傍点]が一番好い事になるが、然しそれでは完全に過ぎて、余り淋し過ぎる。一体自分は歴史家であるから、開闢《かいびやく》以来此世界に現れた、人、物、事、に就いては、少くも文字に残されて居る限りは大方知つて居るつもりであるが、未嘗《いまだかつ》て、『完全なる』といふ形容詞を真正面から冠せることの出来る奴には、一人《ひとり》も、一個《ひとつ》も、一度《ひとたび》も、出会《でつくは》した事がない。随つて自分は、『完全』といふ事には極めて同情が薄いのである。完全でなくても構はぬ、ただ抜群であれば可い。世界には随処に『不完全』が転がつて居る。其故に『希望』といふものが絶えないのだ。此『希望』こそ世界の生命である、歴史の生命である、人間の生命である。或る学者は、『歴史とは進化の義なり。』と説いて居るが、自分は『歴史とは希望の義なり。』と生徒に教へて置いた。世界の歴史には、随分間違つた希望のために時間と労力とを尽して、そして『進化』と正反対な或る結果を来した例が少なくない。此『間違つた希望』と『間違はない希望』とを鑑別するのが、正当なる歴史の意義ではあるまいかと自分は思ふ。自分一個の私見では、六千載の世界史の中、ペリクリース時代の雅典《アテーネ》以後、今日に到る部分は、間違つた希望に依る進化、換言すれば、堕落せる希望に依る堕落、の最も大なる例である。斯う考へると、誠に此世が情なく心細くなるが、然し此点《ここ》が却つて面白い、頗る面白い。自分は『完全』といふものは、人間の数へ得る年限内には決して此世界に来らぬものと仮定して居る。(何故なれば、自分は『完全になる』とは、水が氷になる如く、希望と活動との死滅する事であると解釈して居るからだ。)だから、我等の過去は僅々六千載に過ぎぬが、未来には幾百千億万年あるか知れない。この無限の歴史が、乃ち我等人間の歴史であると思ふと、急に胸が豁《ひら》いた
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