此|稀有《けう》なる出来事に対する極度の熱心は、如何にして、何処で、此出来事に逢つたかといふ事を説明するために、実に如上《によじやう》数千言の不要《むだ》なる記述を試むるをさへ、敢て労としなかつたのである。
 断つて置く、以下に書き記す処は、或は此無限の生命ある世界に於て、殆んど一顧の値だに無き極々《ごくごく》些末の一事件であるのかも知れない。されば若し此一文を読む人があつたなら、その人は、『何だ立花、君は這※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《こんな》事を真面目腐つて書いたのか。』と頭から自分を嘲笑《あざわら》ふかも知れない。が然し、此一事件は、自分といふ小なる一人物の、小なる二十幾年の生涯に於て、親しく出会した事件の中では、最も大なる、最も深い意味の事件であると信ずる。自分は恁《かう》信じたからこそ、此市《ここ》の名物の長沢屋の豆銀糖でお茶を飲み乍ら、稚ない時から好きであつた伯母さんと昔談をする楽みをさへ擲《なげう》ち去つて、明からぬ五分心の洋燈の前に、筆の渋りに汗ばみ乍ら此苦業を続けるのだ。
 又断つて置く、自分は既に此事件を以て親《みづか》ら出会した事件中の最大事件と信じ、其為に二十幾年来養ひ来つた全思想を根底から揺崩された。そして、今新らしい心的生涯の原頭《げんとう》に立つた。――然《さう》だ、今自分の立つて居る処は、慥《たし》かに『原頭』である。自分はまだ、一分も、一厘も、此大問題の解決に歩を進めて居らぬのだ。或は今夜此筆を擱《さしお》く迄には、何等か解決の端《はし》を発見するに到るかも知れぬが、……否々《いやいや》、それは望むべからざる事だ。此新たに掘り出された『ローゼツタ石』の、表に刻まれた神聖文字《ハイエログリフ》は、如何にトマス・ヨングでもシヤムボリヲンでも、レプシウスでも、とても十年二十年に読み了る事が出来ぬ様に思はれる。

 自分が今朝|新山祠畔《しんざんしはん》の伯母の家を出たのは、大方八時半頃でがなあつたらう。昨日の雨の名残の潦《みづたまり》が路の処々に行く人の姿々を映して居るが、空は手掌《てのひら》程の雲もなく美しく晴れ渡つて、透明な空気を岩山の上の秋陽《あきのひ》がホカ/\と温めて居た。
 加賀野新小路の親縁《みより》の家では、市役所の衛生係なる伯父が出勤の後で、痩せこけた伯母の出して呉れた麦
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