も見えなかつた。一月許り前になつて偶然《ひよつくり》歸つて來た。が其時はもう本當の愚女《ばか》になつて居て、主人であつた人に逢ふても、昔の禮さへ云はなんだ。半年有餘の間、何をして來たかは無論誰も知る人は無いが、歸つた當座は二十何圓とかの金を持つて居つたさうナ。多分乞食をして來たのであらう。此盛岡に來たのは、何日《いつ》からだか解らぬが、此頃は毎日|彼樣《あゝ》して人の門に立つ。そして、云ふことが何時でも『お頼《だん》のまうす、腹が減つて、』だ。モウ確然《すつかり》普通の女でなくなつた證據には、アレ浩さんも見たでせう、乞食をして居乍ら、何時でもアノ通り紅《べに》をつけて新らしい下駄を穿いて居ますよ。夜は甚※[#「麻かんむり/「公」の「八」の右を取る」、第4水準2−94−57]《どんな》處に寢るんですかネー。――
此お夏は今、狹い白狐龕《びやくこがん》の中にペタリと坐つて、ポカンとした顏を入口に向けて居たのだ。餘程早くから目を覺まして居たのであらう。
中腰になつてお夏を睨めた繁《しげる》は、何と思つたか、犬に襲はれた猫のする樣に、脣を尖らして一聲『フウー』と哮《いが》んだ。多分平生自分の家として居る場所を、他人に占領された憤怒を洩したのであらう。
お夏は又何と思つたか、卒《には》かに身を動かして、射《なゝめ》に背《せ》を繁《しげる》に向けた。そして何やら探す樣であつたが、取り出したのは一個の小さい皿――紅皿である、呀《オヤ》と思つて見て居ると、唾《つば》に濡した小指で其紅を融かし始めて二度三度薄からぬ脣へ塗りつけた。そして、チョイと恥かしげに繁の方に振向いて見た。
繁はビク/\と其身を動かした。
お夏は再び口紅《くちべに》をつけた。そして再び振向いて恥かしげに繁を見た。
繁はグッと喉を鳴らした。
繁の氣色の稍々《やゝ》動いたのを見たのであらう。お夏は慌しく三度口紅をつけた。そして三度振向いた、が、此度は恥し氣にではない。身體さへ少許《すこし》捩向《ねぢむ》けて、そして、そして、繁を仰ぎ乍らニタ/\と笑つた。紅をつけ過した爲に、日に燃ゆる牡丹の樣な口が、顏一杯に擴がるかと許り大きく見える。
自分は此時、全く現實と云ふ觀念を忘れて了つて居た。宛然《さながら》、ヒマラヤ山あたりの深い深い萬仭の谷の底で、巖《いはほ》と共に年を老《と》つた猿共が、千年に一度|演《
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