も亦、自分の聞き知つて居る處である。
 異裝の男の何人であるかを見定めてからは、自分は平生の通りの心地になつた。そして可成《なるべ》く彼に曉《さと》られざる樣に息を殺して、好奇心を以て仔細に彼の擧動に注目した。
 薄笑《うすわらひ》をして俯向き乍ら歩いて來る彼は、軈て覺束なき歩調《あしどり》を進めて、白狐龕の前まで來た。そして礑《はた》と足を止めた。同時に『ウッ』と聲を洩して、ヒョロ高い身體《からだ》を中腰にした。ヂリ/\と少許《すこし》づつ少許づつ退歩《あとしざり》をする。――此名状し難き道化た擧動は、自分の危く失笑せむとするところであつた。
 殆んど高潮に達した好奇心を以て、自分は彼の睨んで居る龕の内部を覗いた。
 今迄毫も氣が附かなんだ、此處にも亦一個の人間が居る。――男ではない。女だ。赤縞の、然し今はただ一色《ひといろ》に穢《よご》れはてた、肩揚のある綿入を着て、グル/\卷にした髮には、よく七歳《なゝつ》八歳《やつつ》の女の子の用ゐる赤い塗櫛をチョイと※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]して、二十《はたち》の上を一つ二つ、頸筋は垢で眞黒だが顏は圓くて色が白い……。
 これと毫厘《がうりん》寸法《すんぱふ》の違はぬ女が、昨日の午過、伯母の家の門に來て、『お頼《だん》のまうす、お頼《だん》のまうす。』と呼んだのであつた。伯母は臺所に何か働いて居つたので、自分が『何處の女客ぞ』と怪しみ乍ら取次に出ると、『腹が減つて腹が減つて一足《ひとあし》も歩《ある》かれなエハンテ、何卒《どうか》何《なに》か……』と、いきなり手を延べた。此處へ伯母が出て來て、幾片かの鳥目を惠んでやつたが、後で自分に恁《かう》話した。――アレはお夏といふ女である。雫石《しづくいし》の旅宿なる兼平屋(伯母の家の親類)で、十一二の時から下婢をして居たもの。此頃其旅宿の主人が來ての話によれば、稚い時は左程でもなかつたが、年を重ぬるに從つて段々愚かさが増して來た。此年の春早く連合に死別れたとかで獨身者《ひとりもの》の法界屋が、其旅宿に泊つた事がある。お夏の擧動は其夜甚だ怪しかつた。翌朝法界屋が立つて行つた後、お夏は門口に出て、其男の行つた秋田の方を眺め/\、幾《いく》等叱つても嚇《おど》しても二時間許り家に入《はい》らなかつた。翌朝主人の起きた時、お夏の姿は何處を探して
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