心の姿の研究
石川啄木

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)軌条《れーる》

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)ちょこ/\と
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  夏の街の恐怖

焼けつくやうな夏の日の下に
おびえてぎらつく軌条《れーる》の心。
母親の居睡《ゐねむ》りの膝《ひざ》から辷《すべ》り下りて
肥《ふと》った三歳《みつ》ばかりの男の児《こ》が
ちょこ/\と電車線路へ歩いて行く。

八百屋《やほや》の店には萎《な》えた野菜。
病院の窓掛《まどかけ》は垂《た》れて動かず。
閉《とざ》された幼稚園の鉄の門の下には
耳の長い白犬が寝そべり、
すべて、限りもない明るさの中に
どこともかく、芥子《けし》の花が死落《しにお》ち
生木《なまき》の棺《くわん》に裂罅《ひび》の入《い》る夏の空気のなやましさ。

病身の氷屋の女房が岡持を持ち、
骨折れた蝙蝠傘《かうもりがさ》をさしかけて門《かど》を出《いづ》れば、
横町の下宿から出て進み来る、
夏の恐怖に物も言はぬ脚気《かっけ》患者の葬《はうむ》りの列。
それを見て辻《つじ》の巡査は出かゝった欠伸《あくび》噛みしめ、
白犬は思ふさまのびをして
塵溜《ごみため》の蔭《かげ》に行く。

焼けつくやうな夏の日の下に、
おびえてぎらつく軌条《れーる》の心。
母親の居睡りの膝から辷り下りて
肥った三歳ばかりの男の児が
ちょこ/\と電車線路へ歩いて行く。


  起きるな

西日をうけて熱くなった
埃《ほこり》だらけの窓の硝子《がらす》よりも
まだ味気《あぢき》ない生命《いのち》がある。
正体もなく考へに疲れきって、
汗を流し、いびきをかいて昼寝してゐる

まだ若い男の口からは黄色い歯が見え、
硝子越しの夏の日が毛脛《けずね》を照し、
その上に蚤《のみ》が這《は》ひあがる。

起きるな、起きるな、日の暮れるまで。
そなたの一生に涼しい静かな夕ぐれの来るまで。

何処《どこ》かで艶《なまめ》いた女の笑ひ声。


  事ありげな春の夕暮

遠い国には戦《いくさ》があり……
海には難破船の上の酒宴《さかもり》……

質屋の店には蒼《あを》ざめた女が立ち、
燈光《あかり》にそむいてはなをかむ。
其処《そこ》を出て来れば、路次の口に
情夫《まぶ》の背を打つ背低い女――
うす暗がりに財布《さいふ》を出す。

何か事ありげな――
春の夕暮の町を圧する
重く淀んだ空気の不安。
仕事の手につかぬ一日が暮れて、
何に疲れたとも知れぬ疲《つかれ》がある。

遠い国には沢山《たくさん》の人が死に……
また政庁に推寄《おしよ》せる女壮士《をんなさうし》のさけび声……
海には信天翁《あはうどり》の疫病
あ、大工《だいく》の家では洋燈《らんぷ》が落ち、
大工の妻が跳《と》び上る。


  柳の葉

電車の窓から入って来て、
膝《ひざ》にとまった柳の葉――

此処《ここ》にも凋落《てうらく》がある。
然《しか》り。この女も
定まった路を歩いて来たのだ――

旅鞄《たびかばん》を膝に載せて、
やつれた、悲しげな、しかし艶《なまめ》かしい、
居睡《ゐねむり》を初める隣の女。
お前はこれから何処《どこ》へ行く?


  拳

おのれより富める友に愍《あはれ》まれて、
或《あるひ》はおのれより強い友に嘲《あざけ》られて
くゎっと怒《いか》って拳《こぶし》を振上げた時、
怒《いか》らない心が、
罪人のやうにおとなしく、
その怒《いか》った心の片隅《かたすみ》に
目をパチ/\して蹲《うづくま》ってゐるのを見付けた――
たよりなさ。

あゝ、そのたよりなさ。

やり場にこまる拳をもて、
お前は
誰《たれ》を打つか。
友をか、おのれをか、
それとも又罪のない傍《かたは》らの柱をか



底本:「日本の文学15」中央公論社
   1967(昭和42)年6月5日初版発行
   1973(昭和48)年7月30日10版発行
※旧仮名の拗音、促音を小書きする底本本文の扱いを、ルビにも適用しました。
入力:蒋龍
校正:川山隆
2008年5月17日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
終わり
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