に作松に叱られたか知れない。その父は、半歳程經つて近所に火事のあつた時、人先に水桶を携《も》つて會堂の屋根に上つて、足を辷らして落ちて死んだ。天晴な殉教者だと口を極めて布教師は作松の徳を讃へた。母のお安もそれから又半歳經つて、腦貧血を起して死んだ。
 兩親の死んだ時、松太郎は無論涙を流したが、それは然し、悲しいよりも驚いたから泣いたのだ。他《ひと》から鄭重に悼辭《くやみ》を言はれると、奈何して俺は左程悲しくないだらうと、それが却つて悲しかつた事もある。其後も矢張その會堂に起臥して、天理教の教理、祭式作法、傳道の心得などを學んだが、根が臆病者で、これといふ役にも立たない代り、惡い事はカラ出來ない性《たち》なのだから、家を潰させ、父を殺し、母を死なしめた、その支部長が、平常可愛がつて使つたものだ。また渠は、一體其※[#「麻かんむり/「公」の「八」の右を取る」、第4水準2−94−57]人を見ても羨むといふことのない。――羨むには羨んでも、自分も然う成らうといふ奮發心の出ない性で、從つて、食ふに困るではなし、自分が無財産だといふことも左程苦に病まなかつた。時偶《ときたま》、雜誌の口繪で縹緻《きりやう》の好い藝妓の寫眞を見たり、地方新聞で金持の若旦那の艶聞などを讀んだりした時だけは、妙に恁う危險な――實際危險な、例へば、密々《こつそり》とこの會堂や地面を自分の名儀に書き變へて、裁判になつても敗けぬ樣にして置いて、突然賣飛ばして了はうとか、平常心から敬つてゐる支部長を殺さうとかいふ、全然《まるで》理由《わけ》の無い反抗心を抱いたものだが、それも獨寢の床に人間並《ひとなみ》の出來心を起した時だけの話、夜が明けると何時しか忘れた。
 兎角する間に今年の春になると、支部長は、同じ會堂で育て上げた、松太郎初め六人の青年を大和の本部に送つた。其處で三ヶ月修業して、「教師」の資格を得て歸ると、今度は、縣下に各々區域を定めて、それ/″\布教に派遣されたのだ。
 さらでだに元氣の無い、色澤の惡い顏を、土埃《ほこり》と汗に汚なくして、小い竹行李二箇を前後に肩に掛け、紺絣の單衣の裾を高々と端折り、重い物でも曳擦る樣な足取で、松太郎が初めて南の方から此村に入つたのは、雲一つ無い暑さ盛りの、丁度八月の十日、赤い/\日が徐々《そろ/\》西の山に辷りかけた頃であつた。松太郎は、二十四といふ齡《とし》こそ人並に喰つてはゐるが、生來の氣弱者、經驗のない一人旅に、今朝から七里餘の知らない路を辿つたので、心の膸《しん》までも疲れ切つてゐた。三日、四日と少しは慣れたものゝ、腹に一物も無くなつては、「考へて見れば目的の無い旅だ!」と言つたやうな、朦乎《ぼんやり》した悲哀が、粘々《ねば/\》した唾と共に湧いた。それで、村の入口に入るや否や、吠えかゝる痩犬を半分無意識に怕い顏をして睨み乍ら、脹《ふや》けた樣な頭を搾り、あらん限りの智慧と勇氣を集めて、「兎も角も、宿を見附る事《こつ》た。」と決心した。そして、口が自からポカンと開いたも心附かず、臆病らしい眼を怯々然《きよろ/\》と兩側の家に配つて、到頭、村も端れ近くなつた邊で、三國屋といふ木賃宿の招牌《かんばん》を見附けた時は、渠には既う、現世に何の希望も無かつた。
 翌朝目を覺ました時は、合宿を頼まれた二人――六十位の、頭の禿げた、鼻の赤い、不安な眼附をした老爺と其娘だといふ二十四五の、旅疲勞《たびつかれ》の故《せゐ》か張合のない淋しい顏の、其癖何處か小意氣に見える女。(何處から來て何處へ行くのか知らないが、路銀の補助《たし》に賣つて歩くといふ安筆を、松太郎も勸められて一本買つた。)――その二人は既《も》う發《た》つて了つて穢ない室の、補布《つぎ》だらけな五六の蚊帳の隅つこに、脚を一本蚊帳の外に投出して、仰《あふの》けに臥てゐた。と、渠は、前夜同じ蚊帳に寢た女の寢息や寢返りの氣勢《けはい》に酷《ひど》く弱い頭を惱まされて、夜更まで寢附かれなかつた事も忘れて、慌てゝ枕の下の財布を取出して見た。變りが無い。すると又、突然褌一つで蚊帳の外に跳び出したが、自分の荷物は寢る時の儘で壁側にある。ホッと安心したが、猶念の爲に内部を調べて見ると、矢張變りが無い。「フフヽヽ」と笑つて見た。
「さて、何う爲ようかな?」恁う渠は、額に八の字を寄せ、夥しく蚊に喰はれた脚や、蚤に攻められて一面に紅らんだ横腹《よこつぱら》を自暴《やけ》に掻き乍ら、考へ出した。昨日着いた時から、火傷《やけど》か何かで左手の指が皆内側に曲つた宿の嬶の待遇振《もてなしぶり》が、案外親切だつたもんだから、松太郎は理由もなく此村が氣に入つて、一つ此地《ここ》で傳道して見ようかと思つてゐたのだ。
「さて、何う爲ようかな?」恁う何回も何回も自分に問うて見て、仲々決心が附かない。「奈何《どう
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