》爲よう。奈何爲よう。」と、終ひには少し懊《ぢれ》つたくなつて來て、愈々以て決心が附かなくなつた。と、言つて、發《た》たうといふ氣は微塵もないのだ。「兎も角も。」この男の考へ事は何時でも此處に落つる。「兎も角も、村の樣子を見て來る事に爲よう。」と決めて、朝飯が濟むと、宿の下駄を借りて戸外に出た。
前日通つた時は百二三十戸も有らうと思つたのが數へて見ると、六十九戸しか無かつた。それが又穢ない家許りだ。松太郎は心に喜んだ、何がなしに氣強くなつて來た。渠には自信といふものが無い。自信は無くとも傳道は爲なければならぬ。それには、成るべく狹い土地で、そして成るべく教育のある人の居ない方が可いのだ。宿に歸つて、早速亭主を呼んで訊いて見ると、案の如く天理教はまだ入り込んでゐないと言ふ。そこで松太郎は、出來るだけ勿體を附けて自分の計畫を打ち明けて見た。
三國屋の亭主といふのは、長らく役場の小使をした男で、身長が五尺に一寸も足らぬ不具者で、齡は四十を越してゐるが、髯一本あるでなし、額の小皺を見なければ、まだホンの小若者としか見えない。小鼻が兩方から吸込まれて、物言ふ聲が際立つて鼻にかゝる。それが、『然うだなツす……』と、小苦面《こくめん》に首を傾げて聞いてゐたが、松太郎の話が終ると、『何しろハア。今年ア作が良くねえだハンテな。奈何《どう》だべなア! 神樣さア喜捨《あげ》る錢金が有つたら石油《あぶら》でも買ふべえドラ。』
『それがな。』と、松太郎は臆病な眼附をして、『何もその錢金の費《かゝ》る事《こつ》で無《ね》えのだ。私は其※[#「麻かんむり/「公」の「八」の右を取る」、第4水準2−94−57]者で無え。自分で宿料を拂つてゐて、一週間なり十日なり、無料《たゞ》で近所の人達に聞かして上げるのだツさ。今のその、有難いお話な。』
氣乘りのしなかつた亭主も、一週間分の前金を出されて初めて納得して、それからは多少言葉遣ひも改めた。兎も角も今夜から近所の人を集めて呉れるといふ事に相談が纏つた。日の暮れるのが待遠でもあり、心配でもあつた。集つたのは女子供合せて十二三人、それに大工の弟子の三太といふ若者、鍛冶屋の重兵衞。松太郎は暑いに拘らず木綿の紋附羽織を着て、杉の葉の蚊遣の煙を澁團扇で追ひ乍ら、教祖島村美支子の一代記から、一通りの教理まで、重々しい力の無い聲に出來るだけ抑揚をつけ諄々《くど/\》と説いたものだ。
『ハハア、そのお人も矢張りお嫁樣に行つたのだなツす?』と、乳兒を抱いて來た嬶が訊いた。
『左樣さ。』と松太郎は額の汗を手拭で拭いて、『お美支樣が丁度十四歳に成られた時にな、庄屋敷村のお生家《うち》から、三眛田村の中山家へ御入輿《おこしいれ》に成つた。有難いお話でな。その時お持になつた色々の調度、箪笥、長持、總てで以て十四荷――一荷は擔ぎで、畢竟《つまり》平たく言へば十四擔ぎあつたと申す事ぢや。』『ハハア、有り難い事だなツす。』と、飛んだところに感心して、『ナントお前樣、此地方《ここら》ではハア、今の村長樣の嬶樣でせえ、箪笥が唯三竿――、否《うんにや》全體《みんな》で三竿でその中の一竿はハア、古い長持だつけがなッす。』
二日目の晩は嬶共は一人も見えず、前夜話半ばに居眠をして行つた子供連と、鍛冶屋の重兵衞、三太が二三人朋輩を伴れて來た。その若者が何彼《なにか》と冷評《ひやか》しかけるのを、眇目《めつかち》の重兵衞が大きい眼玉を剥いて叱り附けた。そして、自分一人夜更まで殘つた。
三日目は、午頃來《ひるごろから》の雨、蚊が皆家の中に籠つた點燈頃《ひともしごろ》に、重兵衞一人、麥煎餅を五錢代許り買つて遣つて來た。大體の話は爲て了つたので、此夜は主に重兵衞の方から、種々の問を發した。それが、人間は死ねば奈何なるとか、天理教を信ずるとお寺詣りが出來ないとか、天理王の命も魚籃觀音の樣に、假に人間の形に現れて蒼生《ひと》を濟度する事があるとか、概して教理に關する問題を、鹿爪らしい顏をして訊くのであつたが、松太郎の煮え切らぬ答辯にも多少得る所があつたかして、
『然うするとな、先生、(と、此時から松太郎を恁う呼ぶ事にした、)俺にも餘程天理教の有難え事が解つて來た樣だな。耶蘇は西洋、佛樣は天竺、皆《みんな》渡來物《わたりもの》だが、天理樣は日本で出來た神樣だなッす?』
『左樣さ。兎角自國のもんでないと惡いでな。加之《それに》何なのぢや、それ、國常立尊《くにとこたちのみこと》、國狹槌尊《くにさづちのみこと》、豐斟渟尊《とよくにのみこと》、大苫邊尊《おほとのべのみこと》、面足尊《おもたるのみこと》惺根尊《かしこねのみこと》、伊弉諾尊《いざなぎのみこと》、伊弉册尊《いざなみのみこと》、それから大日靈尊《おおひるめのみこと》、月夜見尊《つきよみのみこと》、この十柱の神樣は
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