を瞰下した。古の尊き使徒が異教人の國を望んだ時の心地だ。壓潰した樣に二列に列んだ茅葺の屋根、其處からは※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66]の聲が間を置いて聞えて來る。
 習《そよ》との風も無い。最中過《さなかすぎ》の八月の日光が躍るが如く溢れ渡つた。氣が附くと、畑々には人影が見えぬ。丁度、盆の十四日であつた。
 松太郎は何がなしに生き甲斐がある樣な氣がして、深く深く、杉の樹脂《やに》の香る空氣を吸つた。が、霎時《しばらく》經つと眩い光に眼が疲れてか、氣が少し焦立つて來た。
「今に見ろ! 今に見ろ!」
 這※[#「麻かんむり/「公」の「八」の右を取る」、第4水準2−94−57]事を出任せに口走つて見て、渠はヒョクリと立ち上り、杉の根方を彼方此方、態と興奮した樣な足調《あしどり》で歩き出した。と、地面に匐つた太い木の根に躓いて、其|機會《はずみ》にまだ新しい下駄の鼻緒が、フツリと斷れた。チョッと舌皷して蹲踞《しやが》んだが、幻想は迹もない。渠は腰に下げてゐた手拭を裂いて、長い事掛つて漸くとそれをすげた。そしてトボ/\と山を下つた。
 穗の出初めた粟畑がある。ガサ/\と葉が鳴つて、
『先生樣ア!』
と、若々しい娘の聲が、突然、調戯《からか》ふ樣な調子で耳近く聞えた。松太郎は礑と足を留めて、キョロ/\周圍を見廻した。誰も見えない。粟の穗がフイと飛んで來て、胸に當つた。
『誰だい?』
と、渠は少し氣味の惡い樣に呼んで見た。カサとの音もせぬ。
『誰だい?』
 二度呼んでも答が無いので、苦笑ひをして歩き出さうとすると、
『ホホヽヽ。』
と澄んだ笑聲がして、白手拭を被つた小娘の顏が、二三間隔つた粟の上に現れた。
『何だ、お常ツ子かい!』
『ホホヽヽ。』と又笑つて、『先生樣ア、お前樣、狐踊踊るづア、今夜《こんにや》俺《おら》と一緒に踊らねえすか? 今夜《こんにや》から盆だす。』
『フフヽヽ。』と松太郎は笑つた。そして急しく周圍を見廻した。
『なツす、先生樣ア。』とお常は飽迄曇りのないクリクリした眼で調戯《からか》つてゐる。十五六の、色の黒い、晴れやかな邪氣無《あどけな》い小娘で、近所の駄菓子屋の二番目だ。松太郎の通る度、店先にゐさへすれば、屹度この眼で調戯ふ。落花生の殼を投げることもある。
 渠は不圖、別な、全く別な、或る新しい生き甲斐のある世界を、お常のクリ/\した眼の中に發見した。そして、ツイと自分も粟畑の中に入つた。お常は笑つて立つてゐる。松太郎も、口元に痙攣《ひきつ》つた樣な笑ひを浮べて胸に動悸をさせ乍ら近づいた。
 この事あつて以來、松太郎は妙に氣がそはついて來て、暇さへあれば、ブラリと懷手をして畑徑《はたけみち》を歩く樣になつた。わが歩いてる徑の彼方から白手拭が見える。と、渠は既うホク/\嬉しくてならぬ。知らん振りをして行くと、娘共は屹度何か調戯《からか》つて行き過ぎる。
『フフヽヽ。』
と、恁うまア、自分の威嚴を傷けぬ程度で笑つたものだ。そして、家に歸ると例《いつ》になく食慾が進む。
 近所の人々とも親しみがついた。渠の仕事は、その人々に手紙の代筆をして呉れる事である。日が暮れると鍛冶屋の店へ遊びに行く。でなければ、お常と約束の場所で逢ふ。お由が何處かへ振舞酒にでも招《よ》ばれると、こつそり[#「こつそり」に傍点]と娘を連れ込む事もある。娘の歸つた後、一人ニヤニヤと厭な笑ひ方をして、爐端に胡座をかいてると、屹度、お由がグデン/\に醉拂つて、對手なしに惡言《あくたい》を吐き乍ら歸つて來る。
『何だ此畜生奴《こんちくしやうめ》、奴《うぬ》ア何故《なんしや》此家に居る? ウン此狐奴、何だ? 寢ろ? カラ小癪な!默れ、この野郎、默れ默れ、默らねえか? 此畜生奴、乞食《ほいど》、癩病《どす》、天理坊主! 早速《じらから》と出て行け、此畜生奴!』
 突然、這※[#「麻かんむり/「公」の「八」の右を取る」、第4水準2−94−57]事を口汚く罵つて、お由はドタリと上り框の板敷に倒れる。
『まア、まア。』
と言つた調子で、松太郎は、繼母でも遇《あしら》ふ樣に、寢床の中擦り込んで、布團をかけてやる。渠は何日しか此女を扱ふ呼吸《こつ》を知つた。惡口は幾何吐いても、別に抗爭《てむか》ふ事はしないのだ。お由は寢床に入つてからも、五分か十分、勝手放題に呶鳴り散らして、それが止むと、太平な鼾をかく。翌朝になれば平然《けろり》としたもの。前夜の詫を言ふ事もあれば言はぬ事もある。
 此家の門と鍛冶屋の門の外《ほか》には、「神道天理教會」の表札が掲げられなかつた。松太郎は別段それを苦に病むでもない。時偶《ときたま》近所へ夜話に招ばれる事があれば、役目の説教もする、それが又、奈何でも可いと言つた調子だ。或時、痩馬喰《やせばくらふ》の嬶が、子供が腹を病んでるからと
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