てた、廢郷かの樣に闃乎《ひつそり》としてゐる。今日は誰々が顏色が惡かつたと、何れ其※[#「麻かんむり/「公」の「八」の右を取る」、第4水準2−94−57]《そんな》事のみが住民の心に徂徠《ゆきき》してるのであらう。
 其重苦しい沈默の中に、何か怖しい思慮が不意に閃く樣に、此のトッ端《ぱずれ》の倒《のめ》りかゝつた家から、時時パッと火花が往還に散る。それは鍛冶屋で、トンカン、トンカンと鐵砧《かなしき》を撃つ鏗《かた》い響が、地の底まで徹る樣に、村の中程まで聞えた。
 其隣がお由と呼ばれた寡婦《やもめ》の家、入口の戸は鎖されたが、店の煤び果てた二枚の障子――その處々に、朱筆で直した痕の見える平假名の清書が横に逆樣に貼られた――に、火花が映つてゐる。凡そ、村で人氣《ひとけ》のあるらしく見えるのは、此家と鍛冶屋と、南端れ近い役場と、雜貨やら酒石油などを商ふ村長の家の四軒に過ぎない。
 ガタリ、ガタリと重い輛《くるま》の音が石高路《いしだかみち》に鳴つて、今しも停車場通ひの空荷馬車が一臺、北の方から此村に入つた。荷馬車の上には、スッポリと赤毛布を被つた馬子《まご》が胡坐《あぐら》をかいてゐる。と、お由の家の障子に影法師が映つて、張のない聲に高く低く節附けた歌が聞える。
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『あしきをはらうて救けたまへ、天理王のみこと。……この世の地と、天とをかたどりて、夫婦をこしらへきたるでな。これはこの世のはじめだし。……一列すまして甘露臺。』
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 歌に伴れて障子の影法師が踊る。妙な手附をして、腰を振り、足を動かす。或は大きく朦乎《ぼんやり》と映り、或は小く分明《はつきり》と映る。
『チヨッ。』と馬子は舌鼓《したうち》した。『フム、また狐の眞似|演《し》てらア!』
『オイ お申婆《さるばあ》でねえか?』と、直ぐ又大きい聲を出した。丁度その時、一人の人影が草履の音を忍ばせて、此家に入らうとしたので。『アイサ。』と、人影は暗い軒下に立留つて、四邊《あたり》を憚る樣に答へた。『隣の兄哥《あにい》か? 早かつたなす。』
『早く歸《けえ》つて寢る事《こつ》た。恁※[#「麻かんむり/「公」の「八」の右を取る」、第4水準2−94−57]《こんな》時何處ウ徘徊《うろつ》くだべえ。天理樣拜んで赤痢神が取附《とつつ》かねえだら、ハア、何で醫者藥が
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