言つて、御供水を貰ひに來た。三四日經つと、麥煎餅を買つて御禮に來た。後で聞けばそれは赤痢だつたといふ。
 二百十日が來ると、馬のある家では、泊り懸けで馬糧の萩を刈りに山へ行く。其若者が一人、山で病附いて來て醫者にかゝると、赤痢だと言ふので、隔離病舍に收容された。さらでだに、岩手縣の山中に數ある痩村の中でも、珍しい程の貧乏村、今年は作が思はしくないと弱つてゐた所へ、この出來事は村中の顏を曇らせた。又一人、又一人、遂に忌はしき疫が全村に蔓延した。恐しい不安は、常でさへ巫女《いたこ》を信じ狐を信ずる住民の迷信を煽り立てた。御供水は酒屋の酒の樣に需要が多くなつた。一月餘の間に、新しい信者が十一軒も増えた。松太郎は世の中が面白くなつて來た。
 が、漸々《だん/\》病勢が猖獗になるに從《つ》れて、渠自身も餘り丈夫な體ではなし、流石に不安を感ぜぬ譯に行かなくなつた。其時思ひ出したのは、五六年前――或は渠が生れ村の役場に出てゐた頃かも知れぬ――或新聞で香竄葡萄酒の廣告の中に、傳染病豫防の效能があると書いてあつたのを讀んだ事だ。渠は恁ういふ事を云ひ出した。『天理樣は葡萄がお好きぢや。お好きな物を上げてお頼みするに病氣なんかするものぢやないがな。』
 流石に巡査の目を憚つて、日が暮れるのを待つて御供水を貰ひに來る嬶共は、有乎無乎《なけなし》の小袋を引敝《ひつぱた》いて葡萄酒を買つて來る樣になつた。松太郎はそれを犧卓《にへづくゑ》に供へて、祈祷をし、御神樂を踊つて、その葡萄酒を勿體らしく御供水に割つて、持たして歸す。殘つたのは自分が飮むのだ。お由の家の臺所の棚には、葡萄酒の空瓶が十八九本も竝んだ。


 奈何したのか、鍛冶屋の響も今夜は例《いつ》になく早く止んだ。高く流るゝ天の河の下に、村は死骸の樣に默してゐる。今し方、提灯が一つ、フラ/\と人魂の樣に、役場と覺しき門から迷ひ出て、半町許りで見えなくなつた。
 お由の家の大爐には、チロリ/\と焚火が燃えて、居並ぶ種々の顏を赤く黒く隈取つた。近所の嬶共が三四人、中には一番遲れて來たお申婆《さるばばあ》もゐた。
 祈祷も御神樂も濟んだ。松太郎は、トロリと醉つて了つた、だらしなく横座に胡坐をかいてゐる。髮の毛の延びた頭がグラリと前に垂れた。葡萄酒の瓶がその後に倒れ、漬物の皿、破茶碗などが四邊《あたり》に散亂《ちらば》つてゐる。『其※[#「麻かん
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