様な気がして、深く深く、杉の樹脂《やに》の香る空気を吸つた。が、霎時《しばらく》経つと眩《まぶし》い光に眼が疲れてか、気が少し、焦立つて来た。
『今に見ろ! 今に見ろ!』
 這※[#「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2−94−57]《こんな》事を出任せに口走つて見て、渠はヒヨクリと立上り、杉の根方を彼方此方《あちらこちら》、態《わざ》と興奮した様な足調《あしどり》で歩き出した。と、地面《じべた》に匐《のたく》つた太い木根に躓《つまづ》いて、其|機会《はずみ》にまだ新しい下駄の鼻緒が、フツリと断《き》れた。チヨツと舌鼓《したうち》して蹲踞《しやが》んだが、幻想《まぼろし》は迹《あと》もなし。渠は腰に下げてゐた手拭を裂いて、長い事掛つて漸々《やうやう》それをすげた。そしてトボトボと山を下つた。
 穂の出初《でそ》めた粟畑がある。ガサ/\と葉が鳴つて、
『先生様ア!』
と、若々しい娘の声が、突然《いきなり》、調戯《からか》ふ様な調子で耳近く聞えた。松太郎は礑《はた》と足を留めて、キヨロキヨロ周囲《あたり》を見巡した。誰も見えない。粟の穂がフイと飛んで来て、胸に当つた。

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