ゑ》でも聞えると、隣近所では妙に顔を顰める。素知らぬ態《さま》をしてるのは、干からびた塩鱒《しほびき》の頭を引擦つて行く地種《ぢだね》の痩犬、百年も千年も眠つてゐた様な張合のない顔をして、日向《ひなた》で呟呻《あくび》をしてゐる真黒な猫、往還の中央《まんなか》で媾《つる》んでゐる鶏くらゐなもの。村中湿りかへつて、巡査の沓音と佩剣《はいけん》の響が、日一日、人々の心に言ひ難き不安を伝へた。
 鼻を刺す石炭酸の臭気《にほひ》が、何処となく底冷《そこびえ》のする空気に混じて、家々の軒下には夥《おびただ》しく石灰が撒きかけてある。――赤痢病の襲来を蒙《かうむ》つた山間《やまなか》の荒村《あれむら》の、重い恐怖と心痛《そこびえ》に充ち満ちた、目もあてられぬ、そして、不愉快な状態《ありさま》は、一度その境を実見したんで無ければ、迚《とて》も想像も及ぶまい。平常《ひごろ》から、住民の衣、食、住――その生活全体を根本《ねつ》から改めさせるか、でなくば、初発患者の出た時、時を移さず全村を焼いて了ふかするで無ければ、如何に力を尽したとて予防も糞も有つたものでない。三四年前、この村から十里許り隔つた或村に同
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